2022年6月16日木曜日

弟子たちの失敗の理由(上)

イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」するとイエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(マルコ9・28〜29)

 マタイ伝には「あなたがたの信仰が薄いからです』(17章20節)と書いてある。同じ意味と思う。祈りと信仰。別語にして同意義である。理屈は別であるが実際では一つである。祈って信じ、信じて祈る。信仰と祈りとが一致になった時が本当のクリスチャンである。弟子らには祈りが不足していた。信仰が不足していた。然るに弟子らはそれに気づかずして、主がかつて与えた権威の力が消滅したように考えた。自分らが祈りの人でなくなっていたことは忘れて、主のお約束が履行されないことを感じた。そこで主は彼らの反省を促したのである。このようなことは私たちにもありがちなことで、自分の不信仰を棚に上げて神様が祈りに答えてくださらないと思うことが度々ある。

祈祷
主よ、私に祈りと信仰をお与え下さい。悪霊をも追い出し病をも癒すことのできる信仰の祈りをお与え下さい。私たちの信仰と祈りを空想から救い出して、実弾を発射するものとならせてください。世と悪魔が私達の祈りに恐怖を感ずる程のものとならしめて下さい。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著167頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、David Smithの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』所収の 6/8http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/06/blog-post_8.htmlの続きに位置する文章である。なお訳文は日高善一氏の100年前の名訳を下地に引用者が今風に適宜変えている。〈邦訳540頁、原書278頁〉

3「弟子たちの失敗の理由」
 これ〈註:イエスが「おしとつんぼの霊を追い出された」マルコ9・25〜28の出来事を指す〉は主の権威の顕著なる表現であって、深い印象を与えたのであった。しかし、ここに父の感謝にも群衆の喝采にも関係しない二つの団体があった。すなわち一方は狼狽してたたずむ学者の一団と、一方は九名の弟子とであった。

 彼ら〈註:九名の弟子〉の失敗したところを主が成功されたことは、自然彼らに対する弾劾となったので、彼らは家路に帰る途上、その秘義がどこにあるかを論じ合った。聖クリソストムは彼らの失敗は彼らが主によって『すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威をお授けになり、また神の国を宣べ伝えるために彼らを遣わされた』〈ルカ9・1〜2〉とき与えられたその恩寵を失ったためであると言っている。恐らくこれが彼らの心中に潜む怖れであったろう。しかし彼らはこれを認めるのを嫌がり、自分たちには非難すべき点がないとして互いに饒舌し合いながら言い訳をしたものと思われる。彼らはこれによって彼らが持っている権威に及ばない特別に困難で頑固な例であるとした。

 そして宿に着くや、イエスに来てこのことを訴えたが、イエスは情け容赦なく、この言い訳を排斥された。すなわち彼らの言は結局『このような種類の悪霊は特殊の権威によらなければ追い出すことができません。』と言うような言い方を漏らしたも同然であった。ところが、イエスはこれに応えて『この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません』と答えられた。これはまことに急所をついた一語である。彼らはイエスが山上に行って、おられなかった間に、その時を悪用して、メシヤの王国における彼らの地位を夢見つつ、誰が偉大な者になるのだろうと論じ合っていたのだろう。彼らは祈りの精神を失っていて、胸中に低級な野心を燃やし、天から来ている聖霊の炎を消していたのだった。彼らが失敗したのはこのためであった。主の精神はこのようにして彼らから失われたのであった。)

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