2022年6月7日火曜日

群衆はみな驚いた

そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。(マルコ9・15)

 イエスの容貌か態度かに何か変わったものがあったに相違ない。山へ登って行った人が降りて来たのに不思議はないはずである。九人の弟子たちが山下で待っていたのだから、帰って来るのは当たり前ではないか。されば『群衆はみな・・・驚』いたり、特別に『あいさつをした』のには何か特別な理由がなくてはなるまい。この『驚く』の字は『茫然自失するほどに驚く』という意味の字である。山上の変貌の輝きがまだご容貌にご風姿に残っていたのではなかったろうか。モーセが四十日シナイ山の上に居て神から十戒を受けて、降りて来た時に輝いたように、イエスの御顔に『群衆が驚く』べきものが残っていたのであろう。群衆が『走り寄って来て、あいさつをした』とあるのは主イエスの人格のただならぬ光輝が溢れ出て来るのに打たれたのであろう。尊い人格の権威が肉体の殻を突き破って現われる時に、おのづから他を威圧せずには置かぬものがある。何年かかってもいい、養うべきは高い人格である。

祈祷
主イエスよ、あなたの人格の輝きが肉の皮を透して滲み出る時、群衆が『驚か』ざるを得なかったように、願わくは、あなたの人格が私の人格を占領して、私の人格が全くあなたの姿と変えられますように。そして私の肉体がこれを容れるのにふさわしいものとなりますように。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著158頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。一方David Smithの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』はマルコ9・14〜50に至るまでの聖書記述を射程として次の表題のもと13項目にわたりこの間のイエスさまの一挙手一投足を描写している。

第33章 カペナウムへ帰還
『これが益なく効なきを思われなば、汝はあらわに汝の兄弟に諌めざる可らず。彼に対する躓きの因となるべきを慮りてその罪を庇うなかれ。もし汝懇ろに祈らばこれにまさる力を如何にして与えられざるを得べき、斯かれば躓く石を除き、躓きの因を破壊せらるる主権者なる神の平和の天使たるを得べし』 セント・ベルナド

〈マタイ17・14〜23、マルコ9・14〜22、ルカ9・37〜45、マタイ17・24〜27、マタイ18・1〜14、マルコ9・33〜50、ルカ9・46〜50、ルカ17・1〜2、マタイ18・15=35、ルカ17・3、4〉

※読者よ、この夥しい引照聖句の羅列を繰って見られよ。ラテン語なるセント・ベルナドの言葉、また今後数日間にわたって展開されるDays of His Fleshの要諦を掴まれること請け合いである。

1「学者及び群民隠退の地に侵入」
 イエスが三人の弟子を伴って山上に隠れなさった間に、平地においては種々の事件が起こっていた。あたかもマグダラとダルマヌタの地方に退かれたときにパリサイ人とサドカイ人とが跡を追って来たように〈マルコ8・10〉、この北方に逃れて来られてもなお学者の一隊が群衆に取り囲まれつつ跡を慕って、ついにカイザリヤ・ピリポの隠退の地を発見するに至った。彼らが尋ね当てたときイエスは居られなかったけれども、九人の弟子の居るのを発見し、愚劣な敵意を挿しはさんで彼らを悩まそうと考えたが、願ってもなき機会を与える事件が沸き起こった。〈狂気の少年〉一人の男がイエスに願わんがため、そこへ訪ねて来たのであった。彼が不在なるを見て弟子たちに訴えた。〈九人の無能〉すでにこのような奇蹟を行なう力を彼らはイエスより与えられたので、直ぐにこれを試みたけれども、あわれにも失敗した。学者の歓喜は極度に達した。彼らは意気阻喪せる弟子たちを見て喝采し、もしイエスがここにおられてもなお同じようにこの無能を暴露されたに違いないと説きながら、群衆のイエスに寄せる信頼を傷つける材料にその失敗を利用したのであった〈マタイ10・1、マルコ6・7、ルカ9・1〉。

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