するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。(マルコ9・26〜27)
死んだのではない。一時気絶したのである。棄てておいても息を吹き返すのである。が、イエスは手を取って助け起こした。その父さえもこれだけに細かく気がつかない。愛の細やかさが足りない。然るにイエスの愛はいつでも細かく働き、小さい所まで行き届く。人の嫌がるらい病人と見ればことさらに手をつけて(マタイ8章3節)その淋しさに同情し、ナインの町の寡婦の一人息子を蘇らせたら、すぐに『彼を母親に返された』(ルカ7章16節)ヤイロの娘をよみがえらせた時にも人々はただ驚いているときに『食事をさせるように言われ』(マルコ5章43節)ラザロをよみがえらせた時にも、手と足と顔とに巻いてあった布切れを『ほどいてやって帰らせなさい』と言い給うた(ヨハネ11章44節)女の愛のように細かく行き届く愛を持っておられた。私どもの救い主はこのようなお方であることを感謝する。大雑把な愛しか知らないお方でないことを感謝する。
祈祷
主イエスよ、あなたの愛は蜜のように、濃厚で細やかなることを感謝申し上げます。私たちはたびたびあなたが私たちを忘れられたように感じることがありますが、しかし、これは実にあなたのご配慮が深遠なものであることによることを知ります。私たちの生活のどんなに微細なことに対してもあなたの愛のが行き届かないことがないことを信じて感謝申し上げます・アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著166頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。※最近、私はイエスさまの愛の細やかさ、またイエスさまを信じる人々のうちに内住しており、それが他の人々への愛となっていることを、みことばの説き明かしや愛の実践を通して実感させられた。さしずめ、次のA.B.ブルースの文章はその最たるものだ、上述の青木さんの文章に並行して転写する。
たとい地上ではだめでも、天において理解されていることを知って、どんなにイエスが慰めを受けられたか、私たちは知っている。無情なパリサイ人が罪人を受け入れるイエスの行為を問題にした時、イエスはただちに、たといパリサイ人たちの間でどうであろうと、少なくとも天においては、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人よりも悔い改めた一人の罪人に大きな喜びがある、という幸いな事実に弁明と慰めを求められたのである。頼る者のない弱い立場にある「小さい者たち」が、高慢な非人間的世界で辱められ、踏みにじられている状態を思った時、イエスは、天において御使いたちが御父の顔をいつも見つめており、さらに、小さい者を顧みることを特別の務めとし、ご自分が野心好きの弟子たちに謙遜や親切を教えようとされていたことを充分に評価してくれる御使いたちが天にいることで、言い尽くせない満足を覚えられた。
以上、A.B.ブルースは明らかにルカ15・1〜10を念頭においてこのような文章を認めている。それはひいては、11節以下の放蕩息子のたとえにも敷衍すると思った。全文は以下のブログ記事を参照されたい。http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/05/blog-post_30.html )
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