2022年5月30日月曜日

「変貌」の意味するもの(中)

雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。(マルコ9・7)

 イエスがバプテスマを受けた時にあった声と同じである。ただ『彼の言うことを聞きなさい』と付け加えてある。何のためであろうか。イエスは大なる教師である。いつでも彼に聴かなければならない。誰でも彼の全生涯に聴き、全教訓に耳を傾けなければならない。しかしバプテスマの時には無かったこの一語がナゼここに必要とせられたのであるか。私は思う僅か六日以前にイエスはご自分の十字架にかかるべきことを言われた時にペテロ及び弟子らは一向に耳に入れなかった。むしろ反対の意志をさえ表明した。しかるにこの山上においては主の御変貌に少なからず満足してここに足を留めたいと願った。そこで天よりの声は特別に彼ら三人にイエスの声に聴くべく命じたのであろう。私どもは勝手ツンボであって、聴きたいことだけはよく聴くが、聴きたくないことは一向に聞こえない。されば十字架に向かって山を下り行かんとするイエスに従順に聴くべく命ぜられたのであろう。

祈祷
神様、私どもの勝手ツンボを癒して下さい。耳に快い御声も、聴くに苦しき御声も、共によくきこえる耳を与えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著150頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、 A.B.ブルースは『十二使徒の訓練』上巻320頁以下で、昨日のデーヴィツド・スミスの11「復活の予告」をより細密に述べるかのように、「変貌」が持つ、「イエスへの励まし」と「キリスト者への教え」を語っている。今日と明日の二日間に分載する。まず「イエスへの励まし」である。

 イエスとの関係で変貌の場面をどう見るべきか。今や明らかである。それは祈りに対する答として、エルサレムとカルバリへ続く悲しみの道を歩むイエスを力づけるために、心優しくへりくだった人の子に特別に授けられた、信仰と忍耐への助けであった。その驚くべき夜の経験において、イエスの信仰にきわだった三つの助けが与えられた。第一は、イエスがご自分を低くして死に至るまで従順であられたゆえに、受難の後にお受けになる栄光を、前もって味わわれたことである。その瞬間は太陽のように輝き、御衣はヘルモン山頂に残る白雪のように白くなった。突如として天から、「勇気を出しなさい。苦難の時はやがて過ぎ去ろう。そして、あなたは永遠の喜びに入れられる!」という声があった。

 この山における経験でイエスに与えられた第二の励ましは、たとい地上の罪深い者たちの暗くされた心にはわからずとも、十字架の奥義は天にある聖徒によって正しく理解されている、という確信であった。イエスにはそのような励ましが大変必要であった。十二弟子も含めて当時の人々の間に、イエスが十字架について語られる時、打てば響くような応答を期待できる人が一人も見当たらなかったからである。イエスの受難の奥義を理解する点で、また、それが確かな事実であることを信じることにおいてさえ、十二弟子がーーその中で最も機知に富み、情熱的なペテロでもーー全く無能であるという苦い経験をさせられたのは、ほんの数日前のことであった。

 まことに人の子は、一人暗い谷間を歩むように孤独であった。このように愚かな、情け知らずの仲間に囲まれていることは、孤立感をますます募らせるばかりだった。ご自分の受難のことを理解してくれる仲間を父に求めた時、イエスは完全にされた義人の霊と語り合うことを許された。というのも、死すべき人間にかかわる限り、その偉大なわざを達成するまで、誰にも理解されることのない運命に甘んじなければならなかったからである。イエスの死を巡るイスラエルの偉大な立法者と偉大な預言者の談話は、イエスの精神に真の慰めを与えるものであったに違いない。このほかの時にも、たとい地上ではだめでも、天において理解されていることを知って、どんなにイエスが慰めを受けられたか、私たちは知っている。無情なパリサイ人が罪人を受け入れるイエスの行為を問題にした時、イエスはただちに、たといパリサイ人たちの間でどうであろうと、少なくとも天においては、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人よりも悔い改めた一人の罪人に大きな喜びがある、という幸いな事実に弁明と慰めを求められたのである。頼る者のない弱い立場にある「小さい者たち」が、高慢な非人間的世界で辱められ、踏みにじられている状態を思った時、イエスは、天において御使いたちが御父の顔をいつも見つめており、さらに、小さい者を顧みることを特別の務めとし、ご自分が野心好きの弟子たちに謙遜や親切を教えようとされていたことを充分に評価してくれる御使いたちが天にいることで、言い尽くせない満足を覚えられた。

 確かに、イエスがご自分の死ーーそれは罪人に対する輝かしい愛の証拠であるーーを待ち受けられた時、次のように考えて心を慰められたと信じてよい。「天のかなたで御使いたちは、私が苦しみを受けようとしていることを知っていてくれる。また彼らはその理由をも了解して、わたしが決意をこめてエルサレムに顔を向け、しっかりした足取りで進んで行くのを、熱心に、興味深く見守っていてくれる。」栄化された聖徒らは、自分たちが天にいるのはカルバリの丘でイエスがご自身をささげようとしておられる犠牲の故であることを知っていた。その聖徒たちを代表するこの天上界の二人の住民の来訪は、そのイエスの考えをはっきり証明するものであっただろう。

 イエスに与えられた第三の、そして最大の慰めは、天の御父の承認の御声であった。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」この御声は次のような意味であった。「あなたが死に至るまで自分をささげ尽くそうとしている現在の道を進みなさい。十字架の前にしりごみしてはいけない。あなたが自分を喜ばせようとしないので、わたしは喜んでいます。いつでもあなたを喜んでいますが、つい最近弟子たちに告げたように、きわだった方法によって、あなたが自分自身を救うためではなく、他の人々を救うために定められた計画を明らかにする時、特にわたしはあなたのことを喜んでいます。」

 栄光に輝く天からのこの御声は、キリストがまだ世におられた時、御子の耳に達するように御父から発せられた三つの声の一つであった。第一の声は、イエスがバプテスマを受けられた直後、ヨルダン川で語られたもので、それが他の人々にではなく、イエスに語られたという点を除くと、この変貌の時に語られた声と同じである。あと一つの声は、十字架に付けられる少し前にエルサレムで語られたもので、前の二つと言い方は異なっているが、同じような趣旨のものである。近づく死を前にイエスは心が騒いで、「父よ。この時からわたしをお救い下さい。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください」と祈られた。その時、次のような天からの声が聞こえたのである。「わたしは(あなたの生涯によって)〉栄光をすでに現わしたし、またもう一度(もっと明白にあなたの死によって)栄光を現わそう。」

 これら三つの声はすべて一つの目的を果たした。この世における使命を果たすため全身全霊をささげ、それがどんなに血肉にとってやっかいな働きであっても成し遂げる決意を明らかにした。キリストの生涯の危機に際して語られたこれらの声は、彼が自らを低くして死に至るまで従順であったことに対する御父の満足を表明していた。それはキリストを強め励ますためだった。

 バプテスマを受けた時、イエスは全世界の罪を告白されたのであった。その儀式に身を任せることにより、罪の贖い主としてすべての義を成就する計画を表された。それゆえ、御父は初めて、イエスを愛する御子と宣言された。変貌の出来事の少し前に、イエスは、近づく運命から自分を助け出すようにという愛弟子の提案を、悪魔の誘惑として敢然と退けられた。そのため、御父は同じ宣言を二人称を三人称に変えただけで繰り返された。二人称を三人称に変えた理由は、そこに師のことばよりも天からの御声を期待して耳をそばだてていたペテロのような弟子が居合わせたからである。

 終わりに、死の数日前に、イエスは罪を犯さずとも人間性の弱さから怒る誘惑に打ち勝たれた。ペテロはそれと同じ誘惑にイエスをさらそうとしたのであった。イエスの祈りは暗黒の時から救い出されたいという願いで始まったが、「御名の栄光を現わしてください」という祈願で終わった。それゆえ、御父はさらに繰り返し是認の意思表示をされ、これまで御子が御名の栄光を現してきた方法に対する満足を明らかにし、神の栄光を現す死によって従順を全うしたゆえに、御子に勝利の栄冠が与えられるという確約を与えておられる。)

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