それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。(マルコ8・31)
この『必ず』の文字が特に注意される。これは『なければならない』という文字であって、不可避という意味ではない。避けんと欲すれば、あるユダヤ人の推測したようにギリシャにでも往けばよかったのである※。イエスは使命として斯く為さ『なければならない』と信じ且つ実行したのである。すなわち天意の遂行として『苦しみ』『殺され』『よみがえら』なければならないことを弟子らに予告したのである。言外に贖罪上の必要が含まれているように思われる。私どもを救うために斯く『しなければならぬ』という必要を感じ給うたのである。止むに止まれぬ衷心の要求である。神に対する使命と私どもに対する愛とを果たすために感じ給うた「なければならない』であった。誠に有難い『必ず』である。
祈祷
主なるイエスよ。我がキリストよ、汝は我がために『必ず』苦難を受け『必ず』棄てられ『必ず』殺されるべしと定め給いし御慈愛のほどを有難く感謝申し上げます。願わくはこの大愛を我がはらわたに銘記し、一刻も忘れることなからしめ給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著138頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。※ヨハネ7・35を青木氏は念頭に置かれていたのだろうか。デーヴィッド・スミスの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』はこの件〈くだり〉について次のように紹介している。
第31章 重大なる告白『主の賜物をもって視し給える汝※、ヨナの子よ幸福なるかな、
「神の霊によりて生まれし如く、天にいます我が父によらずば、
汝の血肉によりては悟るを得じ」と
中世紀讃美歌
※引用者註:この「汝」とはヨナの子シモンすなわちペテロを指す
(マタイ16・13〜19、マルコ8・27〜29、ルカ9・18〜20)
1「ピリポ・カイザリヤにて」
2「『人の子を誰となすか』」
イエスは長く志しておられた隠れ家をここに発見されるや、天の王国に関し、また己が身に及ぶ『一大 落』に対して彼らに準備させるため、十二使徒教育の事業に全力を注がれた。まず第一に速やかに確定しておかねばならない問題として最高主要の時期に関することから始められた。その公生涯の入られてより民衆がしきりに論議しているイエス自身に関し、十二使徒が抱いている意見をただし、彼らがイエスに対してどのような判断に到達したかを知ろうと欲された。すなわちその意見を発表するべき時期を逸することはなかった。イエスはカイザリヤの近辺を彼らを帯同しつつ歩いておられたが、聖意はある大事件に集中し祈祷に己を忘れておられたに違いない。やがて彼らを顧みて『人々は人の子をだれたと言っていますか』〈マタイ16・13〉と問われた。イエスがここに『人の子』なる名称を用いられるには目的があったものである。これはその謙譲を表される称号であって、彼らがその内に隠れた光栄を発見し、その真相をどの程度まで認識しているかを知ろうと欲されたのであった。
イエスはここで有司たちの思想はどうだろうとは問われなかった。彼らの意見はイエスをもって詐欺者となし、速やかにこれを滅ぼそうとしていた決意はすでに明白に公表されていた。しかし一般民衆の意見はどうであろうか。彼らはもちろんその天に関する教訓とその奇蹟に対する驚愕とで極力イエスを敬慕しているけれども、要するにただそれだけのことであろう。彼らは果たしてイエスの人格とその事業について正当な概念を得ているであろうか。『人々は人の子をだれたと言っていますか』との問いに、十二使徒は彼らが聞き得た種々の意見を提供した。すなわちヘロデ・アンテパスの如き人々はイエスをもってバプテスマのヨハネなりと言い、ある人はエリヤなりと言い、またある人は古の預言者の一人、おそらくエレミヤであると言った〈マルコ6・14〜16、ルカ9・7〜9〉
3「『汝らは我を誰となすか』」
イエスは、己に対する人々の批評を十二使徒よりも一層よく看取しておられたのはもちろんであって、彼らにこれを尋ねられたのはその批評を知ろうとされるためではない。さらに一層重大で含蓄ある問題を提供されるための準備であった。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか』と続いて質された。これ試験的の重大なる質問であった。彼らの答弁がどうであるかはイエスに対する弟子たちの態度が決まると同時にその教訓から彼らがどのような利益を受け、彼らがまた日ならずゆだねられようとする責任を果たして負うに足る者であるかどうかを示すものであった。言下に少しの猶予も置かず答えて『あなたはキリストです』と言明したものがあった。
〈ペテロの重大なる告白〉これぞペテロ、すなわち『使徒たちの口、絶えず熱烈にして、使徒合唱団中の指揮者』たるペテロであった。誠に重大なる告白である。どんな事情よりするもイエスをもってメシヤとするは重大な告白であって、預言者があらかじめ主張し、正義の人が見えんことを渇望する救い主としてイエスを認識するもので、長くイスラエルの待望し、人類世界の熱心渇望する人物をもってこれを待つ所以である。しかし場合が場合であったためにペテロの告白には格別なる意義を生じ、イエスにとって特殊の価値あるものとなった。その伝道の首途に当たり第一に随従した弟子たちは洗礼者の証言に励まされ、また自ら親しくこれに接し、イエスをメシヤと信じつつ身を投じて来たのであった。しかし彼らはユダヤ人であって、メシヤとその事業についてはユダヤ人の観念から免れることは出来なかったが、爾来イエスと不断に接触している間に、その幻想は絶えず破壊されるのみであった。イエスは油断なく、このメシヤについて一般に確信されている観念と奮闘されたのであった。而して忠信揺るがず謙遜の道を歩まれたので、彼らは日を重ねるにしたがって、イエスは身に受けられる喝采を退け、人の熱情を醸す物資的権威を捨てられる卑賎な人の子であると認識するに至った。
バプテスマのヨハネすら主のメシヤたる所以のこの簡単な試験を課せられて、その心揺らいだのであって、十二使徒がこれを疑うに至ったのは無理はないのであった。然るに『あなたはキリストです』との答えが猶予もなく直ちに表れ出たのは重大な告白であると言わねばならぬ。彼らはまだユダヤ人たる思想になお囚われているのはもちろんであるけれども、すでにその主の恩寵に忝くも浴して、その栄光の到底疑うべかららざるを深く感じたのであった。その現状の彼らの信仰とは矛盾しているとは思いつつもイエスのメシヤにしてイスラエルの救い主であることを思わざるを得なかったのであった。
このあとデーヴィッド・スミスは延々とこれに続き4「耶蘇の称讃」5「ペテロに対する約束」6「使徒時代の二註解」とパウロの教会論にまで敷衍する文章を綴る。このようにデーヴィッド・スミスの説明が詳細を極めているのはマルコの福音書よりマタイの福音書の当該箇所に忠実たらんとするるためであるが、本稿では残念ながら省略せざるを得ない。)
0 件のコメント:
コメントを投稿