2022年5月23日月曜日

十字架を負う理由(3)

このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。(マルコ8・38)

 イエスは恥づべきお方ではないが、今の世ではイエスを信ずる者を辱められる。ご在世中と今と何の変わりもない。この世が『姦淫と罪』が続くまではこの辱めは続くであろう。これも我々の負うべき十字架の一つである。パウロも『我は福音を恥とせず』〈ローマ1・16〉と言った。『恥』とする方が都合のよい場合に出会うことがあるのである。密室においても、人の前においても、イエスのしもべたることを光栄とする者は、『父の栄光』の前において、イエスもまたその人の救い主であることを光栄とし給うのである。あのような弟子を持ったと言って、『父の栄光』の前に誇って下さる。それは主イエスが『聖なる御使いたちとともに来るとき』である。

祈祷
主イエスよ、私の信仰に勇気をお与え下さい。あなたを愛するが故に生ずる勇気をお与え下さい。あなたを愛するが故にあなたを私の誇りとする者とならせて下さい。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著143頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。併せて一昨日、昨日に引き続いてA.B.ブルース(1831~1899)の『十二使徒の訓練』上巻所収の「十字架を負うこと」の論考を見る。

 十字架を負うことを勧める第三の論証は、キリストの再臨から引出される。「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」〈マタイ16・27〉このことばには、話し手〈イエス〉の現在の状態と未来の状態との対比を示し、かつ忠実な弟子たちの現在と未来に相応した対照的な約束が含まれている。この時イエスは人の子として、幾週間か後にはエルサレムで十字架につけられようとしていた。世の終わりに、イエスは無数の仕える霊を従え、メシヤの栄光に包まれて現れる。それは彼が辱めをものともせずに十字架を忍ばれたことへの報酬である。それからイエスは、この世の現実の行程に応じて一人一人に報いられる。十字架を負う生活をした者には義の栄冠をお与えになり、十字架を鼻であしらった者には当然の報いとして永遠の恥辱をあてがわれる。

 この厳格な教理は、いろいろの理由で現代人にきらわれているが、その中でも二つの顕著な理由がある。第一に、この教理は私たちに来世を認めるか否かを迫っているというもの。第二に、この教理はそれ自体報いであるべきはずの徳の結実より、報いを望んで英雄的特性を誇ったりする恐れがある、というものである。

 前者については、約束された報いを信じるか否かは、確かに霊についての大きな秘義であり、重荷である。しかし、恐れなければならないのは、この二者択一〈来世を認めるか認めないかの選択〉が道徳的特性や人間の自由や責任を巡る何らかの教理に巻き込まれてしまうことである。後者については、キリスト者はキリストの仲間に加わることで道徳的に俗化することを恐れる必要はない。永遠のいのちの望みに支えられている徳に、卑属性も不純性もない。その望みは利己的なものではなく、完全に筋の通ったものである。御国の実在を純粋に信じるからこそ、労し苦しみつつも、望みを抱いていられるのである。あなた自身そうでなくとも、個々のキリスト者の望みは御国の実在に重大なかかわりを持っている。このような信仰は英雄主義につきものである。

 いったい誰がはかない夢のために戦い、苦しみを忍ぶだろうか。祖国の独立を回復する望みを抱かずに、祖国のために生命を投げ出す愛国者がいるだろうか。国民的、国家的な希望の中に個人的な望みも含まれていたからといって、純粋な愛国心が損なわれていると言う者は、空論家にほかならない。同様に、キリスト者は栄光の御国を信じているが、個人的なものをその栄誉と祝福のうちに包含させていたとしても、それは当然である。そのような英雄主義を少しも含まぬキリスト者の信仰や希望など、どこにも見出されないだろう。古代の教父が「確かな報いのないところに確かな働きはない」と言ったとおりである。人間は疑いや絶望の中では英雄たり得ない。それは敬虔な推測か、不確かな理想にすぎないのではないかと疑いながら、神の国の完成に向かって戦うことはできない。そのような気分では、人々は安易に流れやすく、世俗的幸福が主要な関心を占めるようになるに違いない。〈『十二使徒の訓練』上巻村瀬俊夫訳312頁より引用〉

※A.B.ブルースのこの論考は貴重である。私たちが十字架を負う理由の最後の理由について述べたものだが、青木さんがマルコの福音書をもとに書いているように、ブルースは並行箇所であるマタイの福音書をもとに書いている。マルコが負の「報い」に言及しているのに対して、マタイが正の「報い」に言及していることに注意しながら読むと、今朝のこの一連の霊解は有益であると思う。そしてブルースの最末尾で触れられている、単なる英雄主義として非難される、「報い」の獲得は、決してそうでないことがわかる。また今のウクライナがロシアの不条理な侵略に国家の独立を求めて戦っていることに思いを馳せることもできる。それよりも、己が身に引き寄せてみれば、自分は神の御国の兵士として果たして働いているかどうかと悔い改めさせられる論考である。しかもこの論考は21世紀でなく19世記のスコットランドで発表されていることを思う時、私は新たな感慨を抱かずにはおれない。)   

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