2022年5月7日土曜日

エパタ(中)

イエスは、・・・その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、・・・その人に「エパタ。」すなわち「開け」と言われた。(マルコ7・32〜34)

 他の病人や盲人と違ってこの人は唖でつんぼだからキリストに対する何らの予備知識もない。人の心に触れずにして奇術的に病気を癒し給うのは主のご本意でない。されば主は懇切に両耳に指を入れ、ご自身の唾液をこの人の舌に塗りつけ給うた。ご自身の舌の先でこの人の舌に唾液を移したかあるいは指の先につけて舌にさわったのかは不明であるが、恰も抱擁して接吻し給うた如き御態度をとり給うた。この懇篤な態度は主の温かい御心をこの人の心に通じさせずにおかなかったであろう。愛と信とに目覚めつつある心に対して『開け』と宣うたのは意味が深い。主が私どもを癒し給うとき費用なしに易々と為し給うのではない。主ご自身を費やして我々を癒し給うのである。主が我々を愛し給うその一挙一動には十字架の価が払われている。

祈祷
価なしに受けたれば価なしに施すべしと私たちにお教えくださった主よ、あなたは大いなる価を払いて私たちの救いを成し遂げてくださっています。あなた自ら尊い価を払って、私たちに価なしにこれを受けさせて下さる恵みを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著127頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はクレッツマンの『聖書の黙想』118頁からの引用である。 

 この出来事のあった場所から、主は地中海の沿岸づたいにシドンに向かって、北へ北へと進まれたらしい。それから、東に方向を変え、レバノン山脈の低い地帯を越えて、ヨルダン渓谷の上流を下り、とうとう最後にデカポリスの地方に達し、その付近で、悪霊に憑かれた男を癒すことになったものと思われる。人々はみもとへ、耳と口の不自由な男を連れて来たのだ。この男に対して、人々が大いに心を配っているのは明らかだったが、どんな人力でもってしても、救うことはできなかった。
 主はただ一言で、この男を癒すことができるにもかかわらず、その代わりに、きわめて巧みな身ぶりの言葉を用いて、ご自分がこの男の苦難を理解する者であるということと、救いはご自身から来るのだという考えを、男の心に印象づけた。主は男の両耳に指を差し入れて濡らした指で男の舌に触れ、天を仰ぎ、救いは必ず天から来ることを示して、熱心な祈りのしるしにあからさまなため息をつき、それから、土地の言葉で「エパタ」と叫ばれたのである。これは「開けよ」という意味で、おそらく、この男の聞いた最初の言葉となるものだった。
 見よ、この男は聞くことができるようになったばかりか、言語の障害も取り除かれて、すらすらしゃべることまでできるようになったのだ。主は群衆の不快な好奇心を避けたかったので、この男を人々から別に離しておいて、このことを仰々しく騒ぎ立てないように言われたが、それでも、人々の驚きはひとかたならないものだったので、ますますこの出来事は言い広められた。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」
 このようにして、これら半異教徒ともいうべき人々は、神の救いの力について、とうとう何かを探り当てたのである。この人々の中に、イエスが主であり、救い主であられることを語るようになった人がどれだけあったかを、誰が知ろう。)

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