そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。(マルコ9・3〜4)
ルカ伝を見ると『祈るために山に登られた』とある。されば主は祈りの中にご変貌なさったのでしょう。主が祈り給う時は実に神々しいものがあったのでしょう。誰でも真剣に祈っている時の顔を見ると平生よりは立派なものがその顔に見出されます。よく祈る人の顔には奥の底に言い表せぬ深みが生じます。祈れば祈るほど人格に深みが生じ、容貌風采にも変化が生じて来ます。ある人が、よく祈る人は歩き方が違う、と言ったそうですが、とにかく断片的な祈りでなく一日とか一夜とか、あるいは数時間とかあるいは高い山に登り、あるいは静かな海辺に出で、全く世離れして祈る時を持つことは人をして『輝きて甚だ白く』ならしむる効果があります。
祈祷
主イエスよ、あなたさえも高い山に登って祈られたのならば、願わくは、私にも祈りのために時を費やし労を費やし姿が変わるまで神と交わることができるようにさせて下さい。願わくは、この尊貴なる事業のために時と労を惜しむ私たちの怠慢からお救い下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著146頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 クレッツマンの昨日の続きの文章である。
主の差し迫った苦難と死についての告知の中で、イエスは栄光の中で再び来ることにも、しばしば触れられなかっただろうか。そしてマルコ9・1がその場合である。彼は力を込めて語り、弟子たちの心を励ます。今ここに立っている彼らの中のある幾人かは、力をもって来る神の国の到来の厳しさを目にするであろうと。そして、実際に彼らの中のある者が、天からの栄光の一端に触れたのは、この日より六日しか経っていない時であった。彼らがまだ、レバノン山の麓のカイザリヤ・ピリポ地方に滞在していた頃だと思う。
弟子たちの中から、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れ出したイエスは、その彼らの前で、姿を変えられた。今や神の栄光の中にある者、それは彼らがよく知っている日頃のイエスである。しかしいつもの質素な主の衣は、不思議な輝きに満ちている。人の手をもってしては、このように純白な、目を奪う様子を、再現することは不可能である。そして、神々しい輝きに包まれた二人の人物の姿が見られた。弟子たちは、この人物は、エリヤとモーセとであり、この二人が、世界、ひいては私たちのすべてに大きな意味を持つ所の、差し迫った重大な出来事をイエスと話し合っているように見受けたのである。地上の人間である弟子たちが、このような人間の理解をはるかに超えた栄光を見た時、全く圧倒されてしまったのは、無理もない。
※このクレッツマンの文章を熟読すると、5/24の「勝利の約束」の中で引用した『KGK聖書註解』のマルコ9・1の預言が示す時期の四つの可能な解釈のうち①「変貌」説をクレッツマンは取っているように読めるが・・・)
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