2022年5月25日水曜日

高い山に導かれし三弟子

草花の 人が造れね 艶やかさ 
それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。(マルコ9・2)

 これは主イエスがピリポ・カイザリヤで弟子らと共に静かに過ごし給うた六日間である。この世の生活の終わりも近づいた時、最も親しい弟子らと一週間を過ごしたことは弟子らにとってどんなにありがたいことであったろう。特にペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は高い山の上にまでつれて行って頂き御栄光を見させて頂いたのである。ペテロは後になってこの記憶を語って『この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。・・・おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。・・・私たちは聖なる山で主イエスと共にいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです』(2ペテロ1・16〜18)と言っている。この尊い印象は、苦しい時、悲しい時、失望落胆の時に、幾度ペテロを活かしペテロに力をつけたことであったろう。私どもも時々イエスと共に高い山に登り特別にイエスの御栄光を拝するような時間を持たないと、平常の生活に力がなくなる。もちろんこの時のような奇蹟的な経験をは求めて必ず与えられるものではない。けれども、特別にイエスと共に高い山に登ることは出来る。それが密室という高い山でもよい。主の御栄光を直視するような祈りを献げる時間を造りたい。

祈祷
主イエスよ、願わくは、私をあなたと偕に高い山に登らせて下さい。この世の平地にのみ生活する私たちを憐れんでくださって時には霊界の高山に登る体験をお与え下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著145頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。今日からおよそ一週間余り「主の変貌山上」の記事を読むことになるが、青木氏、スミス氏、ブルース氏、クレッツマン氏、いずれの方の論考にも甲乙つけがたい味がある。と言うより、長年の信仰生活で「福音書」にどれだけ真っ正面に取り組んで来たかを近頃思い知らされている。先ずはクレッツマンの『聖書の黙想』を若干紹介したい。

20「これはわたしの愛する子である。これに聞け」
 ペテロがなした告白は、それは立派なものであった。「あなたこそキリストです」。この告白に至った者は、それが、生まれつきに備わっている能力から告白できたものでないことを知っている。父なる方が、そのことを啓示されたのにほかならない。このことから一週間も経たないうちに、主に最も近くあったペテロと二人の内弟子は、変貌の山の上で、父なる神の声を通し、天から確証された、永遠に変わりなき救いの真理を耳にすることになる。

 言うならば、この文章はクレッツマンの総論にあたる文章である。明日はその詳細各論なる文章を紹介する。)

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