2022年5月16日月曜日

次第次第に明らかにされる主の恵み

イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが・・・」と言った。(マルコ8・23〜24)

 前出の唖者を癒し給うた時のそれに似ている。多分この人の信仰を漸次に導き出すためであったろう。最初信仰のおぼろげであったこの盲人もイエスご自身が手を取って村の外まで連れて行き給う間に先ずイエスに対する信仰の目が次第に明らかになったであろう。が、これはまた私どもの信仰生活の良き喩えでもある。盲目な私どもが何処へ往くとも知らずイエスに導かれて出で行く時親しく手を我が目に触れて癒し給う。最初から霊界はハッキリと見えないけれども、度々主に触れて行く間に次第に明らかに見えるようになってくる。

祈祷
主よ御手もて引かせ給え。暗きこの世の旅路を歩む時、我が目のくもりて見えぬ時、主よ願わくは御手もて親しく我れを導き給え。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著136頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』8「十二使徒の遅鈍」に続く引用である。
9「ベッサイダの盲者の治」

 この事件によってイエスはいよいよ十二使徒の教養の緊要なのを事新しく感ぜられた。時に行程は終わって、小舟はその航路尽き、一同は湖の北方に到着して上部ヨルダンの河口に上陸せられた。河の左岸を少し遡るとベッサイダと称する小さき美わしい町があった。かつては寂しい村落であったが太守ピリポがそれを拡張し整理してロオマ皇帝アウグストの娘ユリアの名前を取ってベッサイダ・ユリヤと称するに至った。イエスは北方に心急かれるままに、ひそかにこの町を隠れて通過される思召であったろうけれども早くも発見するものがあった。

 而して癒されるためにと盲者を伴って来た。群衆が再び集まり来たって、その行程を遮るべきを看取せられたイエスは、盲者の手を取って、奇蹟を行なう前にこれを町の外に伴い、視覚を遮られているため、触覚をもって、その霊性に接せられた。而して当時の医者の所作に準じ、その眼に唾をつけて手を触れ、何物が認め得るかを問われた。盲者は眼を開いた。蓋しその聖手と聖音に彼の信仰は燃やされて、これを仰見んとして努力したのであった。

 その瞬間に奇蹟は行われて『我れこの人々の歩行くを見るに樹の如し』と答えた。英国の一哲学者の言うに、ある盲者に紅の色についていかなる観念を持っているかと問うと、彼はラッパの強い音を集めたように思うと答えたそうである。この盲者は周囲の人々を眺めて、その動くのを見れば人であることを知ったがために人を見ると思うけれども、彼らは盲目中に胸に描いていた樹のようであると答えたのであった。主がその両手をその錯乱した眼に触れられるや否や万物整然と見ゆるに至った。

10「ベタニヤより脱出」
 この男は近郊の村に住まっていたものと思われる。イエスは一般の人に認められるのを避けるために、彼が村に入るのを禁じて、直ちに家に帰らせ、こうしてわずかに活路を得て、遮るもののない旅行の途へと上られたのであった。

 一方、クレッツマンは同じ箇所を次のように『聖書の黙想』130頁で述べている。

 ガリラヤの湖を、渡ったイエスと弟子たちは、ベッサイダ〈ジュリヤ〉地方にやって来た。以前この近くで、主は五千人の人に食を与えられたこともあった。人々は彼の所に一人の盲人を連れて来たが、彼は異常とも見える方法でこの男をお癒しになった。彼は一言をもって彼を癒すこともできただろう。しかし主は、ここの場合に各様のご自分の仕方によってかかわられた。彼には最も良いと見え、私たちには説明が届かないような形を通してさえ、私たちを救われるのである。しかし、奇蹟ばかりを求めるばかりで、主の真の目的を理解することには、鈍い人々の中から、この男を離し、町の外へと連れ出した主の目的を容易に理解できるだろう。

 男の目に唾をもって触れ、両手を彼にあてて、主は語りかけられた。主は、少しずつ、視力を回復するようにされたので、男の目には、最初、歩いている人が、木のようにぼんやりとかすんでうつる。主はもう一度彼の目に両手をあてて、見上げよと命じられる。そして、見よ、男の視力は、完全に取り戻されたのである。主は、この時も、心ない、感情的な人々が、彼に押しかぶせる、誤った名声を恐れられたので、この男に、まっすぐに家に帰って、町に戻るなと言われる。このような出来事は、町の中では、隠し通せるものではない。この記事に対して、私たちは、次のことに気がつこう。すなわち主は、私たちを助け、救うために来られたのであって、私たちの好奇心や興奮への期待を満足させるために来られたのではないことを。)

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