2022年5月15日日曜日

パン種(下)

「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」(マルコ8・18〜19)

 観察力と記憶力の霊的使用とでも言うべきであろうか。目と耳と記憶とを用いるには神様の前に責任のあることが教えられているではないか。イエスが弟子たちに対してこれほどに小言がましく言われたことは他に少い。弟子としては別に何も悪いことをしたというのでもなし、過失があったのでもない。ただ主の大奇蹟を忘れたと言うに過ぎない。それが良くない。忘れるにも事による。忘れることが大きな災害を起こすこともある。キリストの大能に対する健忘、キリストの大慈に対する忘恩、これらは許すべからざる罪悪である。この大宇宙を見て神の大能を見ない者。過去に受けた大いなる恩恵を忘れて呟く者。決して『忘れました』では済まないのである。見ること聞くことにおける霊的不注意、過去に対する霊的忘却、これは信仰の怠慢から生ずるものであってキリストのお叱りを受ける性質のものである。

祈祷
主よ、私に天地万有にあなたの働きを見る鋭い観察の耳目をお与え下さい。いいえ、私たちの日常生活人事百般のうちにも御手の働きを見、御声のささやきを聞く耳をお与え下さい。そうしてあなたの一切の御業と御教えとを永遠に忘れない尊い記憶をお与え下さい。肉に属する一切を忘れて、霊の一切を忘れることができない天的の記憶を私にお与え下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著135頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はクレッツマンの『聖書の黙想』125頁からの引用である。  

 結局、彼らは見る目も、聞く耳も持ち合わせていなかったのではないか。二、三日前に起こったことも覚えていないほどに彼らは記憶力に乏しいのだろうか。たとえ、パンが尽きてしまったところで、どうして、心配するいわれがあろう。苦々しげにイエスは嘆かれた。「あなたがたは、どうして、まだ悟らないのか」。
 そこで、最後にはこの弟子たちにも、師がパリサイ人の偽りの教えについて語ったのだということが、おぼろげながら、分かりかけて来た。今日でも、この警告は、何とわずかしか理解されていないことだろう。
 つまり、偽りの教義のパン種は、たとえ小さなものでも、私たちの気づかないうちに、深く入り込んで来て、取り返しのつかない害を及ぼしやすいということである。)

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