2022年5月22日日曜日

十字架を負う理由(2)

人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。( マルコ8・36〜37)

 『いのち』の字『霊魂』とも訳し得る。肉体の生存の意味でないことだけは明らかである。ナゼなればイエスご自身が肉体の命を投げ出され、また『わたしと福音とのためにいのちを失え』と言っておられる。だから霊魂のいのちに相違ない。『損じたら』と言って前節の『失うならば』の語に代えておられるのはどういうわけか。『損じたら』とは『損害を受ける』の意味である。あるいは霊魂を全然損失してしまう意味にもとれるし、霊魂がある損害を被るとの意味にも取れる。霊魂が全く滅亡に行くのは困るが、少しくらいの損傷を受けて『全世界』でなくとも、一千万円も『得たら』いいなあとの感を潛かにもっている人は無いだろうか。これは死の途である。イエスは断じて言う。霊魂に損傷を受けるよりは全世界をもうけそこなう方がいいのだと。『得する』『損する』全然打算的な語で、イエスはこの世に限られた小打算でなく、永遠に通ずる大打算を立てよと注意し給うのである。

祈祷
主イエス様、この世の打算に目がくらんで、永遠の大計算を見ることのできない私を憐んで下さい。王冠の輝くダイヤに少しの傷もつけないように、私の霊魂を守って下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著142頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。今朝の箇所は何度読んでも引用者には理解しづらい文章であった。同じように感じられる方は昨日のA.B.ブルースの文章を読んでいただくとスッキリすると思う。もっとも青木氏の祈りの言葉は簡潔明瞭だ。これで十分だ。デーヴィッド・スミスの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』は昨日の6「苦難を伴にせんため召される」に引き続いて、7「鼓舞奨励」と題して次のように述べる。   

 イエスがこのように打撃に重ねるのに打撃をもってされることは不思議のように思われる。また彼らがイエスに転じ来るところは既に十分に明らかに悟っているのであった。彼らに必要なものは新たな警告よりもむしろその間確かな信念を与えられることであった。しかも実際イエスがこのようにされたのは頗る思慮深い処置であって、彼らの丈夫の精神、彼らの義侠心ならびに彼らの信仰を煥発させられるためであった。また彼らの召されたのは英雄的苦節を全うせんがためであって、これに耐える勇気を鼓吹されたものであった。イエスに対する愛情、イエスが彼らに寄せられる信任、彼らを誘導された神聖な行路について彼らに訴えられるものであった。

 彼らは果たして『イエスと福音のために』極力努めることが出来ない者であろうか。なお一層進んでイエスはその生命を保とうと欲するものはこれを失うことを、さながらロオマの風刺家の『名誉のためにこそ生命を献げつつもなお生命のためにその生命の目的を忘れて』の語と同じことをもって戒め給うた。『もし人全世界を得るとも、その生命を失なわば何の益あらんや、また人何をもってその生命に代えんや』と。人間は生命を一つの他に有しないものであって、もし一度これを失わば、何処にこれを求めることができよう。このイエスの最後の議論は最も人を動かすものであった。

 なお、A.B.ブルースはその『十二使徒の訓練』で十字架を負う理由の第二の理由について次のように言う。〈同書310頁〉
 この二つの質問は、商取引の売り手にも買い手にも、魂〈いのち〉の比類なき価値を示している。ことばの真の意味で、魂〈いのち〉は、個人的な財産は言うまでもなく、全世界を支払っても足りないほど高価なものである。魂を犠牲にして世界を得る者は、取引上、損をしたことになる。
 一方、全世界は、いったん失った魂を買い戻すにはとうてい足りない金額である。愚かにも安く手放してしまったとしたら、金では買えないもの〈魂〉を買い戻すために、人はいったい何を差し出せばよいのだろうか。「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。」〈ミカ6・6〜7〉 とんでもない!あなたがささげるべきものは、そのいずれでもない。あなたの商売の儲けでもなく、巨万の金貨でもない。この世で所有するすべてのものをもってしても、あなたが世界と交換に手放してしまった自らの魂を買い戻すことはできない。魂の贖いはそのくらい尊いものである。銀や金のような朽ちる物によって魂を罪の束縛から贖い出すことはできない。そのような、赦しや平安やいのちを買い戻そうとする試みは、その人をいっそう絶望の淵に追いやり、さらに自分自身を罪に定めるだけである。
 これらの厳粛な問いに含まれている訴えは、正しい良心を持ち合わせているすべての人の胸に、抗し難い力で迫ってくる。そうした人々は、外見的な善が「救われた魂」を持つこと、すなわち真のキリスト者になるにはとうてい及ばない、と感じるであろう。が、すべての人がそういうふうには考えない。大多数の者は、自分の魂を非常に安く見積もっている。ユダはそれを銀貨30枚で売り渡した。取るに足りない世的な利益のために自分自身を手放して構わない、と考える人が少なくない。大多数の人々の大きな野心は、動物的に幸福になることであって、「救われた者」、高貴な精神を宿す聖別された者としての祝福にあずかることではない。
 「誰が私たちに良いものを示してくれるでしょう」とは、多くの人が口にすることばである。「私たちに健康を、富を、家を、土地を、名誉をください。私たちは義や平安や聖霊による喜びなど望みません。それらはそれぞれ良いものです。だから、もしそれらを他のものと一緒に労せず手にすることができるのでしたら、それに越したことはありません。でも、それらを得るのに、この世の楽しみを断念したり、困難に耐えなければならないのだとしたら、まっぴら御免です。」)

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