2022年5月29日日曜日

「変貌」の意味するもの(上)

実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。そのとき雲がわき起こってその人々をおおい・・・(マルコ9・6〜7)

 天国の前味である。雲間にもれる月かげである。永久の天の喜びはまだ許されない。ペテロは十字架を忘れていた。天国を許される前に主イエスが十字架につかねばならなかったことを忘れていた。ペテロもローマで逆さまに十字架につかねばならなかったことを忘れていた。されば天の光景の真ん中に地上の欲望を持ち出してこの聖い山上の空気を濁らせた。そこで「雲がわき起こってその人々をおおって』しまったのであろう。十字架の道を過ぎ行く者にのみ天上の光栄は永久に許されるのである。

祈祷
天の父よ、私たちは栄光を欲し祝福を欲します。しかし十字架の道は欲しません。どうかこの近視的な我欲から救って、主イエスと共に十字架の道を歩む喜びを味わわせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著149頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はデーヴィツド・スミスの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の昨日の10「変貌」の続きの文章である。

11「復活の予告」
 この驚くべき事件〈「変貌」のこと〉の真の意義は、湖上を歩まれた主のあの奇蹟と等しく、復活の予表と見ることによって始めて明らかになる。神の大能によってイエスの肉体は復活のいのちの状態だと思われた。聖パウロの言葉を借りて言うと『霊のからだ』となられたのであって、死より復活の後にはエマオの途上において、またエルサレムにおいて、さらには湖の岸において、このような状態で三度現れなさった。この奇蹟には二様の目的があった。第一の必要はイエスに力を添えて、控えている暴虐な処刑に対し、これを鼓舞する計画であった。

〈イエスを励ますため〉
あたかも幔幕〈まんまく〉を掲げて、わずかに隙間から永遠の世界をイエスの眼前に表さしめたようなものだった。またあたかも追放された者には故郷を望ませるように、疲れ切っている旅人に休みを与えるようなものであった。イエスは人類の贖いを成就するために、人の子の間に生活され、始めて獲得されるであろう栄光をべっ見し、これから主の前に用意されている喜びと同じ予兆を得られたのであった。

 ただこの慰めの予兆のみではなかった。イエスの御心は十二使徒の鈍いこと、民衆の蒙昧、有司の敵意に痛く心を悩まされたが、その変貌の間に、その事業を神は如何に認識されるか、また栄光を授けられた聖者がこれをどのように見るかがこれによってイエスに示されたのであった。今は孤独のうちに地上にあって、誤解され、捨てられ、迫害されるが、天の同情と嘉納は確実であることが明らかにされたのである。

〈受難を弟子たちに示すため〉また、変貌は弟子たちのためになされる目的があった。すなわちメシヤの苦難を信じずまた否定する思想を改めさせようとして苦難に伴う栄光を彼らに示されたのであった。イスラエルの栄誉輝く名簿中でもことに偉大な栄光ある二人物との間の談話を傾聴して彼らは果たして何を学んだだろうか。彼らは、『世を去らんとする』すなわちギリシヤ語によれば『イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期』〈ルカ9・31、2ペテロ1・15参照〉についてこの聖者たちが語るのを聴いた。弟子に対しては忍ぶことができない屈辱であり、また絶望的災害と思われるこの事件は、モーセとエリヤの判断によれば、神が奴隷の境地からモーセの手によってイスラエルを導き出し、自由の国民とならせられた時に、行なわれた偉大な救いと等しい驚嘆すべき勝利であった。聖クリソストムの時代に用いられた聖ルカの福音書のうちにはこれが大変明瞭で、その一句は『栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していた』となっている。そしてこのようなことがその後程ならずして教会に示された主の受難の思想であった。ヘブル書には『私たちはイエスを見ています。イエスは死の苦しみのゆえに栄光と誉れの冠をお受けになりました』〈ヘブル2・9〉)

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