イエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」(マルコ7・27〜28)
イエスらしからぬ態度の如く見える。が、それはこの女に反省させるためであったのみでなく、最も堕落した偶像教のカナンの女であったからである(マタイ15・21)。ラビたちはこれらの人々を犬と呼んでいたが、イエスは小犬と呼んだ。パレスチナには野犬が群れをなして人畜に害を与える。しかし小犬は家の中で愛撫されている。イエスがこの女を小犬にたとえたのは、一方において自分の偶像教徒であることを反省させると同時に他方において神の家の中にあって愛撫されるものであることを暗示している。だからイエスは『まず子どもたちに』と言って、次に小犬にもと考え得る余地を与えた。パリサイ人ならば『まず』とは言わない。『小犬』とは言わない。このイエスの精神はこの女に通じて、イエスの注文通りにこの女には本当の信仰が生じた。そこで『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように』(マタイ15・28)と賞めて娘を癒し給うた。
祈祷
主イエスよ、あなたはこの汚れに満ちた私を見て、犬と呼ばないで、小犬と呼んでくださったことを感謝申し上げます。そうです、主よ犬にも劣る私をも顧みて、いのちのパンを投げ与えてくださったことを感謝申し上げます。願わくは大いなる感謝と謙遜とをもって日々あなたのパンくずを食べさせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著123頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。デーヴィッド・スミス『受難者耶蘇 Days of His Flesh』のこの項目に関する叙述は以下のようになっている。〈邦訳475頁 原書247頁〉
第29章 フェニキヤへ隠退
『汝を愛するものと共に戯れ給うイエスよ。
ああ驚くべきかな。
しかも汝は戯るるのとき自ら楽しみ給わず
汝は人を欺かずまた欺かれ給わず
汝の包まんと欲し給うものを排し給う
汝を有せざるものを汝は知り給えば。』
中世紀讃美歌
(マタイ15・21〜29、マルコ7・24〜31)
1「ツロとシドンの地へ隠退 2「婦人の嘆願」3「彼女の不屈」4「この物語の難題」5「主の拒否」6「隠退の希望のため」7「主の外観の無情」8「格言的の語」9「彼女の答辞も諺なり」10「主女の本性を洞観せらる」11「異教徒中の伝道」
これら叙述を見ると、1と11を除いて、2から10に至るまで実に9項目にわたってこのスロ・フェニキヤの女性への主への嘆願と主の応対について色んな仮説で検討がなされているが、引用者には理解困難であった。ただ10「主女の本性を洞観せらる」の末尾はかろうじて理解し得ると考えたのでその部分だけ転記するが、その詳細は明日にまわす。)
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