イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」(使徒8・27)
イエスという人は自分に関する世評を気にするような弱いお方ではあるまい。されば何故にかかることを弟子たちに問い給うたのであるか。答えは至極簡単であると思う。それは何人であるかという問題が今弟子らに遺して行く信仰の中心とならねばならぬからである。イエスがもし単に一個の教師であるか預言者であるならば人が自分を如何に批判しても差し支えはない。しかし彼が遺して行く福音の中心を為すものが、彼の誰であるかという問題によって決するものであれば弟子らにこれを十分に会得させておかなければならない。だから今この問いを発したのである。然り、キリスト教の中心はイエスである。イエスの人格である。人格の高下ではない。人格の種類である。イエスはキリストすなわち救い主であるという信仰が福音の基礎を為すものであることはイエスご自身が弟子らに教えたところである。イエスを単に模範とするキリスト教はイエスのキリスト教ではない。
祈祷
主イエスよ、この恐ろしき現代の不信よりお救い下さい。奇蹟を排し、あなたが神の子であることを排し、私たちより救い主を奪い去らんとする不信なる牧師と教会とより私たちを救い出しえ下さるように切にお祈り申し上げます。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著137頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。クラックマンはこれら箇所の表題として『人々は、わたしをだれと言っているか』とつけ、『聖書の黙想』128頁以下で次のように書いている。
今日、私たちの前に開かれるこの箇所の物語では、私たちの救い主は、苦しみと死へと通ずる諸段階の中の、具体的な一歩を進めておられる。ここに出て来る人々は、イエスが、その言葉の示すまことの意味で、約束されたメシヤであるという事実からは、遠くへだたった所で、彼を考えていた。
主はまず弟子たちに、正しい知識を与えねばならなかった。ペテロが、すべての使徒たちの名においてなした告白は、この方向に弟子たちの理解が向かっていたということが、うかがわれる。弟子たちは、彼の国は、ただ彼の死と苦しみによってうち立てられることを、だんだんと学ばねばならなかった。彼の国は常に、十字架の下にある王国であり、霊的な、永遠の価値をもった王国だったのである。
深く静まりかえるガリラヤの海を後にして、イエスとその弟子たちは、今や狭い一つの湖を通り過ぎ、約30マイル離れたレバノン山の麓のピリポの町へ向かわれる。この町はピリポの首都である。この地方に来た人々は言うだろう。自然の美に恵まれたここは、休暇を過ごすにふさわしいと。しかし、主にとって、この旅を思い立たれたのは、休暇のためではなかった。主は、彼の弟子たちに、彼ご自身と、彼の国についての、より正しく、より深い知識を与えるための時間は、ますます、少なくなりつつあることを知っておられた。彼のそばで、ゆっくりと足を運んでいる弟子たちに、イエスは質問をかけられる。「人々は、わたしをだれと言っているか」と。そして、人々は、イエスを、色々な言葉でほめたたえ、偉大なる預言者の一人に彼をなぞらえたり、あれこれの、預言者の再来だとさえ考えているとの答えが得られる。しかし、人々は、彼が、メシヤその人だとの確信からほど遠いところに立っているようである。その時、主は、この問いを、まっすぐに弟子たちの前におかれる。「それでは、あなたがたは、わたしを誰と言うか:。ペテロは即座に、そして立派に、弟子たちすべての名において答えた。「あなたこそキリストです」。
彼に最も近くにいるこの者たちは、少なくとも、彼がこの世界に来られた意味を更にはっきりと理解し始めている。このことは、主の心をどんなにか慰めたことだろう。しかし、この彼らも、正しい態度と、正しい理解をもってこの言葉を受け取れるようになるためには、学ぶべき多くのことが、まだまだ残っていたのである。そこで、主は、そのことを誰にも漏らさないようにと厳しく命じられた。私たちは、今日の人々が、キリストの御人格とその国について、あまりにも少ししか知らないことに、驚かされまい。
主にとって、この弟子たちに対しては、間もなく起ころうとしている事柄を教え、心備えを促す以外に何ができただろうか。
ヨハネ福音書2・18〜22に見られるように、かつて主は、公に彼の苦しみと死について語られたことがあった。しかし弟子たちは、起こることがないこととして、それを心の外に押し出していた。私たちもまた、それについて、如何にみことばが明らかに語られてはいても、受け入れていない沢山の事柄があるようである。そこで、今や主は、はっきりとまた力を込めて、出来る限りの明白な言葉を通し、差し迫った彼の苦難、彼の死、そして彼のよみがえりについて、弟子たちに語り告げたもう。彼らがショックを受けたのは無理からぬことだろう。)
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