2022年5月20日金曜日

十字架に立ちはだかる(サタン)

『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』(マルコ8・33)

 人情と神情との衝突である。弟子として師を思うの情はペテロと弟子たちの心に燃えていた。それだけ情にあついイエスにとっては苦しい誘惑であった。その急所を狙ったサタンの狡智がペテロの背後にかくれている。一身を十字架の上に献げて民を罪の塗炭と地獄の火から救わねばならないのが神情である。ここに十字架を負わんとする者の苦痛がある。正面から来る敵を破るのは難くないが、真実な温かい愛情を退けて使命のために死の道に急ぐのは難しい。イエスが『下がれ。サタン。』と疾呼し給うたのは、この誘惑を退けるに大きな努力を要したことを示すものではあるまいか。淋しい時のイエスにとって弟子たちの厚い志はどんなに嬉しく感じられたであろう。それを振り切る努力がこの厳しい語となって現れたのだと思われる。

祈祷
主イエスよ、汝は我が罪のために実に一切を振り捨て給いしことを感謝し奉る。汝は地上にて当然受けるべき人の情けをも退け、十字架の上においては天の父の愛をも退けて、我と共に罪人となり給いしことを感謝し奉る。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著140頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。デーヴィッド・スミスの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』は昨日の1「受難と復活の第一暗示」に引き続いて、次のように述べる。

2「ペテロの抗議」
 この宣言は十二使徒の耳には百雷のごとくに轟いた。彼らはびっくりした。而してイエスを熱愛するペテロはこれに耐えられず、欣慕する師の袖を控えて、おののき惑いながら抗議を提出した。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません』〈マタイ16・22〉と。これは仇の厚意を寄せる言葉であってペテロの特徴がよく表れているけれども、なお温かな愛情から湧いたものであった。それ故にイエスは一層苦痛を感じられたのであった。その伝道の間、十字架の影は終始一貫その眼前に鮮やかであって、俗世の隆盛に赴かられることはイエスにとって一大事であった。その面は確固として揺るがず、まっしぐらに前途をのぞみすすまれたのであった。この世を贖う犠牲となるべきイエスの死は天の父の聖旨であった。しかもイエスの肉は残虐な処刑におののき、誘惑は間断なく身に迫って路を転じ、容易なる方を選ばそうとしたのであった。

 その公生涯に入られた当初、悪魔は世界の諸国と、その栄華をイエスの眼前に開展して『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう』との約束をもって、荒野においてイエスに迫ったのであった。悪魔は爾来しきりに、イエスの眼前に十字架の残酷なるを呪詛しつつ、他の円滑な行路を示して、絶えずこれに迫った。しかし、イエスは常にこの誘惑者の甘言を排し、自己を捨て、自己を犠牲とさせようとして召される聖音に聞き従い、天の父の聖旨を成すために全身全霊を献げ、その事業を完成せられた。今や誘惑はその暴力を揮って新たに迫って来た。その語は悪魔の声であるけれども今し方偉大な告白を提供した愛する弟子の口を藉りているのであった。誘惑者はペテロの形態を装えると等しく、温かな真情を献げつつ、これを強要して説伏しようと試みるのであった。

〈その答弁〉イエスが身震いして、言下にこれを仮借されなかったのは当然であった。イエスはその美わしいき外形の背後に潜む誘惑を認められた。先ず身を巡らして、彼らの思想や如何と他の弟子たちに一瞥を与え、然るのち、常に恩寵の聖語の溢れる恵み深い柔和な聖唇より『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』との宣言が迸った。)

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