2022年5月27日金曜日

イエスと語り合う、モーセとエリヤ

世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。(マルコ9・3〜4)

 人は白くなるほど霊界に深く進み入る。潔められるほど霊界が明らかに見えてくる。霊の世界は見るべきものであって証明すべきものでない。神と天使。モーセとエリヤ。それらの存在を信ぜぬ人は信ぜぬが良い。キリストの血に洗われ、一切の罪を潔められ、黙想と祈祷と断食とみことばの味読とによって神に近づき奉る者には、霊の世界は物の世界よりも現実となってくる。イエスの祈りは父と語り給うたのみでなく、モーセとエリヤとも相語った。ゲッセマネでは天使が現われた(ルカ伝22章43節)モーセとエリヤは律法と預言者(すなわち旧約)の代表者として姿を現わし『イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していた』(ルカ9・31)のである。換言すれば贖罪の十字架について語り合ったのである。地上と天上とは近い。互いに興味をもって語り合える。ただし我々の罪の生活がこれを妨害しているのである。すべてを潔められた復活の時の生活を見せられたこの光景はこの三人の弟子のみでなく我らをも励ますではないか。
祈祷
地に這う虫のように土をのみ見て、天を見ることのできない私たちを憐れんでください。願わくは、時には私たちに大なる祈りを与えて天にまで飛躍することができるようにして下さい。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著144頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。このイエスとモーセ・エリヤの会話の重要性に着目したA.B.ブルースは『十二使徒の訓練』上巻318頁以下で次のように語る。

 「変貌」を正しく理解するには、この出来事の少し前にイエスがご自分の死に触れて言われたことと結びつけて考察しなければならない。そのことは、三人の福音書記者が、この出来事があった時間的経過を、イエスの最初の受難告知とそれに伴う談義との関連で注意深く述べていることからも明らかである。どの福音書記者も、受難告知があってから六日ないし八日のうちに、イエスが弟子たちの中で特にペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れてある高い山に登り、彼らの前でイエスの姿が変わった次第を告げている。(中略)日付をわざわざ示すことは、受難についての談義を記憶に呼び覚まして考えるようにという指示であって、「もしこれらの出来事を理解したければ、前にあったことを思い起こしなさい」と言うのである。

 福音書記者全員が示している時間的経過からこのように推論することは、イエスと天来の訪問者たちが交わした会話の内容を、ルカだけが記していることによって充分に支持される。それは「しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである」と記している。そのご最期ーー事情も結果も、モーセやエリヤのそれとは異なるーーこそ彼らの会話の主題であった。その二人はこの主題についてイエスと語り合うためにイエスのもとに現れた。そして、それを語り終えると、彼らは再び祝福の住居である天へと旅立った。

 この会話がどれほど続いたのか、私たちは知らない。しかし、その話題は、会話の興味ある内容を充分連想させてくれる。例えば、目もまだかすまず気力も衰えないうちに何の苦痛もなく世を去ったモーセの死と、イエスが忍ばれる不名誉な死との間に見られる、驚くべき対照について話し合われたことだろう。そしてまた、エリヤの地上の去り方ーー死を味わうことなく天に移され、火の戦車に乗ってこの世から栄光のうちに脱出したーーと、イエスが栄光に入られるためにたどられる道ーー十字架のヴィア・ドロローサ〔悲しみの道〕ーーとの間に見られる、さらに顕著な対照についても話し合われたことであろう。このように死を、あるいはその苦しみを免除される特権が、律法と預言者とを代表するこの二人になぜ与えられたのか。そして、律法と預言者の終わりとなられた方〔キリスト〕にはなぜその特権が与えられなかったのか。これらの点で、天からの光に輝く二人の天来の使者は、イエスの疲れ果てた孤独な魂を力づけるために、人の子に知性と同情をもって語る資格を備えていた。)

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