イエスは言われた。「まず子どもたちに・・・(マルコ7・27)
すべてのことに順序がある。時がある。神が世界を経営なさるのに周到なプログラムがある。イエスはよくこのプログラムを知っている。だからご自分の使命の区域をも知っている。善事ならいつでも如何なる場合でも、これを為すべしと言うわけには行かない。イエスの御使命は先ずイスラエルを救うことにあった。そしてそのために生命を棄てることであった。異邦人伝道は十字架以後お弟子たちによって為さるべきものであった。然り己の家族を措いて先ず隣人を愛すると称する人があったら、私はその愛を疑う。イエスは人類愛を高唱した博愛の世界人であった。この世界人にも『まず子どもたちに』という愛国的熱情が燃えていた。
祈祷
すべての者を愛し給えど『まず子どもたちに』と言い給う主よ。私に如何なる徳ありてか私をあなたの子と為して下さいました。あなたをアバ父と呼ぶことを私に許し、キリストと共にあなたの世嗣となしてくださるあなたの恵みを感謝申し上げます。願わくは子であるもののように生きることができるようにして下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著124頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は昨日果たせなかったデーヴィッド・スミス『受難者耶蘇 Days of His Flesh』の10「主女の本性を洞観せらるる」の末尾の部分である。
我らの主の答弁中にはもちろん嘲笑の意味があるけれども、寸毫も軽浮な調子はない。聖眼には必ずや聖語と共に露が宿って、その聖容にも聖語の調子にも聊かも嘲笑の影だに認められず、痛める母はその温容に聖旨の厚きを看取したに相違はない。なおその事情は心配ではあったけれども絶望の場合ではなかった。王の大臣の子息は死に瀕していたのであるけれども、彼女の娘は狂気であった。したがって生死を争う問題ではなかった。すなわちカペナウムの大臣とこのスロ・フェニキアの婦との間には性質の異なった世界がある。彼は『滑稽の有力なる恩恵』には門外漢たる生真面目なユダヤ人であるが、これは思想の軽妙にして頓智に長け、風刺や修辭の巧みを喜び、悲痛の間にすらなお諧謔的攻撃に忽ち応ずるギリシャ人である。彼女に対する我らの主の態度は、畢竟人間の品性を洞観せらるるその驚くべき能力を示す一例である。主はその対せらるる人物を一瞥にして看取し、これを如何に遇すべきかを剴切に悟らるるのであった。)
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