ペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン・・・」(マルコ8・32、33)
イエスの淋しさと勇気が思われる。官憲の圧迫は次第に加わり民衆の心は次第に離反し、かつてはダビデの子と尊んだが、今ではエリヤかエレミヤの再来程度に考えるようになった。十二弟子だけはまだ『汝はキリスト』なりと信じているが、いよいよキリストとしての使命は殺されることだと明言し給うたときに彼らの心の奥には直ちに栄光のキリストの実現を夢見ていた醜さがペテロによって暴露した。しかもこの醜さは子弟の情という温かい衣を着ている。これを振り切って、唯独りで十字架の道へと急がなければならなかったイエスの御心は悲壮である。ヨハネやペテロにも主の十字架を少しも分かち担うことは出来なかった。然り、十字架は独りで負うべきものである。
祈祷
主イエスよ、私にあなたの心をお与え下さい。私が十字架を唯一人にて負い行く淋しさと勇気とを私に与えて、何処なりともあなたに従い行かせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著139頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はクレッツマンの『聖書の黙想』132頁からの引用である。
ペテロは主をかたわらに連れて行って、主を非難する。確かに、主はこんなことを口にされてはならないのだ。しかし、イエスは彼の最も深い魂の中で目を覚ましておられた。この世界の救いのための神の永遠のご計画は、このようにしてかたわらに退けられてよいものだろうか。彼はおそれに打たれた弟子たちに厳しい目を注がれる。聖なる怒りをもって、主は、ペテロのこの善意ある言葉を、偽りの父であるサタンそのものから来ている言葉として、激しく非難されたのである。主の使者であることを自任しながら、主の受難と死は、この世の救いのために必要でないとする者たちに対して、キリストは今日、果たして何と言われるだろうか。
たまたま近くにいた人々を呼び寄せられた主は、今や彼らにとって、忘れることの出来ない教訓を与えられる。彼に従うことは、自己否定の道であり、十字架を背負い、自分を忘れることを意味している。この世を得て、自分の魂を失うことは、実際には魂の大安売りである。あのさばきの日を、払い除けようとすることは、極端な悲劇に他ならない。そして、彼自身は、神と聖なる天使たちの前にあるのだと認めるものは、私たちのいのちにかぶせられる栄光を待ち望むものとなるであろう。神は、その日に、私たちを恥じずに、受け入れて下さるように。
一方、デーヴィッド・スミスの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』はこの件〈くだり〉は章を改め、第32章 苦難と栄光 と題して、冒頭に以下の言葉を掲げて、その詳細を12項目にわたって紹介する。
『全き生涯を示し給う汝は 恩寵深き十字架を心に留めるを望み給う 恩寵深き十字架の一を 留め給う汝はただひたすらに これに思いを潜め給う』聖ボアヴェンチュラ
(マタイ16・20〜17・13、マルコ8・30〜9・13、ルカ9・21〜36)
1「受難と復活の第一暗示」
ペテロの唇より、その弟子たちの信仰の告白を聴かれることはイエスにとって歓喜に堪えられないところであった。しかし、その歓喜の潮がイエスの聖胸に沈下するや否や、彼らの証言が再び民衆の熱狂を引き起こしかねないのを恐れて、メシヤであることを何人にも告げるなと戒め、その後、重要な宣言を与えられた。これより前既にイエスは自分を待っている悲運について漠然とした暗示を与えられたが、世俗的王国というユダヤ人の夢を描きつつ彼らは全て心に留めなかった。ところが今は彼らが事の真相を知らねばならない時期であって、彼らの信仰告白はイエスにこれを発表する勇気を与えられた。すなわちイエスは『エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に目によみがえらなければならないこと』〈マタイ16・21〉を彼らに示された。)
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