2022年5月21日土曜日

十字架を負う理由(1)

『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。』(マルコ8・34〜35)

 これこそ実にキリストの御教えの大動脈である。この心を持ち、これを実行せんとする者こそ本当にクリスチャンである。その人の血管には必ずキリストの血が流れている。私は敢えて実行せんとする者と言う。不断の努力である。これを完全に実行し得る者は稀有であろう。しかし間断なくこれを実行せんと心がけることは出来る。最初は恐ろしい命令のように響く。けれども勇敢にこれを努力するならば次第にキリストの温かい御手が自分の懐の中で動き出すのを感ずる。十字架は次第に無くてならぬものになってくる。自分と共に、自分より先に、十字架を負い行き給う主イエスが次第に近く感ぜられてくる。

祈祷
主イエスよ、あなたの道はいばらの道です。されどこの道は天に達するの道なるを信じます。どうか途中で挫折することなく、終わりまで忍んで十字架を負わせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著141頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。デーヴィッド・スミスの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』は昨日の2「ペテロの抗議」に引き続いて、3「十二使徒の健忘」4「ユダヤ人的偏見に囚えられる」5「その当然の例」と述べ、さらに6「苦難を伴にせんため召される」と題して次のように述べる。
   彼らの主にして死の必要ありとの宣言は彼らにとって霹靂〈へきれき〉の如く轟いた。〈The announcement that their Master must die was a heavy blow〉驚愕しつつ佇立する彼らに、イエスはいかなる手段を取られたであろうか。イエスはむしろ進んで今一撃を彼らに与えられた。ただにイエス自ら苦しまれねばならないのみならず、彼らもまたその苦しみに与らねばならないのであった。

 人心には何人といえども主権を争う二条の要求があるーー自我とイエス、すなわちこれであって、人もし果たして弟子ならばイエスにその主権を献ぐべきはずである。而して自我の阿諛に対して『否』と主張し、十字架を取り、自我をこれに掛け、自我を死に渡さねばならないのである。『もし我に従わんと欲う者は己を棄て、その十字架を負い我に従え』と。曩に使徒の職分に赴任せしめられるにあたっては、イエスは既に『十字架を負うべきを』〈マタイ10・38〉示されたが、今はさらに身に及ぶべき苦難を宣言せられると同時に発表されたため、これは単に比喩にあらず、畏懼〈いく〉すべき現実なるを認識するを得たのであった。すなわちイエスの仰せられる通りの意義を悟ったのであった。

 一方、A.B.ブルースの『十二使徒の訓練』の『十字架についての最初の教え』と題する以下の論考がある。〈同書303頁より引用〉

 厳しい告知の後に、もっと厳しい告知が続く。主イエスは弟子たちに、ある日ご自分が死に渡されなければならないと言われた。そして今、それは主ご自身の身に起こるだけでなく、同じように弟子たちの身にも起こらなければならないと言われる。この第二の告知は、第一の告知が受け止められた段階で当然出て来るものであった。〈中略〉ここで教えられている教理は、あらゆる時代の、すべてのキリスト者に対するものである。〈中略〉ここに教会のかしらであり王である方〈キリスト〉は、その支配に服するすべての者に義務を負わせる普遍的律法を公布される。それはすべての者に、ご自分との交わりにおいて十字架を負うことを求めている。〈中略〉キリストの死は贖罪的なものとして孤高の意味を有するが、しかし義のために受ける苦難として、それは真に敬虔な生涯を歩む者が偽りに満ちた邪悪な世で苦難を受けなければならないという普遍的律法の典型である。

 この十字架の律法に、イエスは三つの理由を付加し、それに少しでも従いやすくされた。それらは弟子たちに、厳しい要求に従うことが、かえって真の利益を得るという真理を示している。

 第一の理由はこうであるーー「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」。このはっとさせる逆説的なことばの中で「いのち」という語は二重の意味に用いられている。前半と後半の各文節の最初の「いのち」は自然的生命を意味し、それを喜ばすあらゆる付属物を伴っている。第二の「いのち」は新生した魂の霊的生命を意味する。従ってこの意味深長なことばは次のように拡大解釈できよう。すなわち「自分の生まれながらのいのちとそれに伴う世的な幸福の追求を第一の務めとすることによって、自分のいのちを救おうと思う者は、いのちそのものである高次の生命を失い、わたしのために自分の生まれながらのいのちを喜んで失う者は、真の永遠のいのちを見出すのです。)

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