弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。(マルコ8・14〜16)
イエスの心は霊のことで一杯であった。弟子たちの心は肉のことで一杯であった。今、舟の中で食するものが無いと言うのが弟子たちの大問題であった。いつまでも天よりのしるしなどを求めて生命のパンを求めないパリサイ人らの心の腐敗がイエスを悩ましている問題であった。師と弟子とこれほどの距離がある、同じ舟にいても心の居るところは大変にちがう。これがまたイエスの大なるお悩みであった。一般民衆の浅薄な無理解、宗教の指導者であるべき人たちの偽善と虚飾、それに加えて弟子たちの霊的遅鈍。イエスはどんなに淋しく感じられたことであろう。『まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか』とのお叱りの言葉には主イエスの孤独の感が現われているではないか。私どもも今少し霊に心が奪われるようにならなければ主に淋しい思いをおさせ申すであろう。
祈祷
主イエスよ、何につけても肉に思いを馳せる私どもはただそれだけで如何に御心をいためておるでありましょう。私どもはあなたと同じように思い、考え、同じ問題に心を奪われるようになりとうございます。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著133頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はクレッツマンの『聖書の黙想』125頁からの引用である。
今ご自身の眼前にされた心のかたくなさに深く落胆し、重い気持ちを抱きながら、主は湖の東に戻ることを決められたが、急の出立で弟子たちは食物を持って来るのを忘れてしまった。たった一つのパンだけが、彼らの手持ちの全てだった。ところで、彼らは。つい今し方、万事を見届けたはずなのに、またもや、世俗的なわずらいに、たやすく心を占められてしまうのだ。だから、イエスがまだ先刻の敵たちのやりとりに胸を痛めながら、「パシサイ人とヘロデ〈サドカイ人ととりわけ親しい間柄にある〉のパン種に十分気をつけなさい」と言われた時、彼らは、一人残らず、師の言葉を誤解してしまった。彼らはパンを持って来ないことで非難されたのだと考えたのである。この弟子たちに対するイエスの失望はひとかたならぬものだった。
※クレッツマンはこの箇所を含むマルコの記述〈8・1〜21〉に「どうして、まだ、悟らないのか」と題名をつけている。まことに宜〈むべ〉なるかなである。)
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