2022年5月14日土曜日

パン種(中)

「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」(マルコ8・15)

 イエスがこれほどに嫌い給うた『パン種』とは何であろう。ルカ伝(12章1節)には『パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです』とあり、マタイ伝(16章12節)には『パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った』とある。この二つを総合すると、誤れる教理と偽れる人格である。これをパン種に喩えたのは腐敗から生じたものである点と、少しのものが全体をふくらます点とを指したのであろう。現代人は教理や神学を嫌う。しかし教理が正しくなければこれを信ずる者の人格にも正格でないところが生じてくる。宗教に情操や情感の満足のみを求めてカトリックに赴く人の多い現代は果たして健全な人格を生じ得るだろうか。ヘロデのパン種とサドカイ人のパン種とは現世主義唯物主義でありパリサイ人のパン種は形式主義外面主義である。前者はマルクスに代表者を見出し後者はカトリックに後継者を見出す。この二つのパン種を私どもの心から全滅させねば主の御心に適うことは出来ない。

祈祷
主よ、願わくは我が衷より一切のパン種を除き去り給え。純真無雑の心をもって、ただ専心一意御足の跡を慕わせ給え。我らを魅せんとするこの世の物の惑わしに目を閉じ、一路天の彼方を目指して進み行かせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著134頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。『受肉者耶蘇』7「北方へ脱出」と題した文章は前回5/12に示した通りであるが、途中で終わっており、その続きに〈パリサイとサドカイの発酵〉と題する以下の文章がある。

 「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」と戒められた。この時イエスは現に遭遇された光景を思い浮かべつつ、パリサイ派の盲従的伝統教とサドカイ派の放縦、並びにヘロデ王廷臣の貴族的阿諛者に対するを戒められた。一句はその真のメシヤの意義を論じられるべき前提〈マルコ8・15〉であったが、もしその後を続けられることができたならば、ただし彼らが予期することができなかったであろうーー『キリストの苦難とそれに続く栄光を』〈1ペテロ1・11〉あらかじめ彼らに示されるはずであった。然るに談話は妨害された。乗船されるとき弟子たちは急いだ余りにパンを携え来ることを忘れて僅かに一塊のみの他は持ち合わせなかったので、イエスが『パン種』と仰せられた言葉を文字のままに解して、パリサイ人やサドカイ人に加担する人々からパンを得ることを禁じ、それを得るべき方法を命じられたものだと想像した。

8「十二使徒の遅鈍」
 これ十二使徒の遅鈍にして非霊的なるを示すものであった。『パン種』なる言葉を精神的な意義に用いるのはユダヤでは普通であって、彼らがことに先頃見聞きした事実を有する以上この誤解は許すことの出来ない失態であった。もし彼らは人を真に汚すものについての主の教訓〈マタイ15・16〜20、マルコ7・18〜23〉を心に留めていたならば、パリサイ人あるいはサドカイ人の手に触れたパンと言えどもこれを禁じられることがないのを夙く悟ることが出来たはずだ。ましてパンの一塊りをもって数千人を二回も養われたイエスが彼らの間におられるのに何の心配があろうか。『何ぞ互いにパンを携えざりしことを論ずるや、未だ悟らざるか、汝らの心なお頑きか、目ありて視えざるか、耳ありて聴こえざるか、また悟らざるか。我れ五千人に五つのパンを割り与えしとき、そのクズを幾かご拾いしや、また四千人に七つのパンを割り与えしとき、そのクズを幾かご拾いしや、汝らこれを覚えざるか。「パリサイ人とサドカイ人のパン種を慎め」とはパンについて言えるにあらざることをどうして悟らないのか』とイエスは叫ばれた。)

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