2022年5月11日水曜日

主の拒絶(第三回目)

天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「・・・今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」(マルコ8・11〜12)

 イエスの奇蹟は慈愛から流れ出た奇蹟であって人を驚かさんがための奇蹟は一つもない。慈愛の奇蹟に目を閉じる者に単なる驚異を与えて何になろうぞ。イエスの深く嘆じ給うたのはかような心である。実を言えばイエスは天よりの奇蹟を弟子らに見せて居られる。バプテスマを受けた時に天から声があったし、ヘルモン山上で変貌してモーセとエリヤと語り、その時にも天から声があった。けれどもこれらは慈愛の奇蹟を信ずる者のために与えられたのである。愛を受けぬ者に対して何物をも与えられる筈がない。

祈祷
天の父よ、願わくは愛に開く心を与え給え。世の罪のために閉ざされたるこの心をもあなたの愛に向かって常に開くことができるようにして下さい。私はまだ真実に人を愛することが出来ませんが、真実にあなたの愛を受け入れる事を学ばせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著131頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はクレッツマンの『聖書の黙想』124頁からの引用である。 

 主がガリラヤの海の西岸にもどられると敵たちはすぐさま迎え討った。パリサイ人は、他の点ではあまり親しい間柄でなかったサドカイ人と、イエスの権威に挑戦するという点では明らかに共謀してしまったのである。彼らは主から、しるしを求めた。なんと目の閉ざされた、愚かなことだろう。主は他の誰もがーー彼らの偉大な預言者たちでさえーー行わなかったような、しるしと奇蹟をなさったのではないか。しかし、不信仰というものは常にこんなものだ。つまり、見たくない見ないで、「なかった」と言い張る。このように手に負えない不信仰の証拠を前にして、イエスが深く胸を痛め、悲しまれたのは無理からぬことだった。彼は心の中で、深く短足しなければならなかった。これらの人々の愚かな欲望を満たすために何か見せ物めいたことをするのは、きっぱり拒絶されたのである。
 もし、主のみことばと、そのことばをもたらした神からの信任状で不十分だというなら、彼らはあと一つ、更に偉大な奇蹟を期待するだけだった。つまり、マタイ福音書に見るように、イエスの葬りの復活に関する、預言者ヨナの奇蹟である。ここで、主は彼らのもとを立ち去られた。

 なお、『受肉者耶蘇』はその494頁以下で、4「舟に乗りて遁れ給う」5「パリサイ人サドカイ人来着〈『天よりのしるし』の要求〉6「主の拒絶」と書き進めているが、そのうち6「主の拒絶」に次のように述べている。

 我らの主がしるしを求めるものにこれを拒絶されたのは、これで三回目であった三回目であって、その都度如何にその要求を適当に処置せられたかを特に注意すべきである。第一回はその伝道開始の当初エルサレムにおいて過越の祭りの間に起こったこと〈ヨハネ2・18、19〉であって、そのしるしは有司にもまた当時の弟子にすらも、悟り難いところであったけれどもなおこれに応じられた。すなわち復活のしるしがこれであった。第二回は憤慨しつつこれを辱められた。しかもその慣用の手段をもってニネベの人々がヨナの説教によりて悔い改めしたことと現在の論争とを比べつつ、ヨナの説教よりも偉大なるしるしの彼らの前にあるに彼らがなお心に留めざるを戒飾してこれに応ぜられたのであった〈マタイ12・38〜42、ルカ11・16、29〜32〉。今第三回の要求がさらに提出されたが、イエスは絶対にまたこれを辱めつつ拒否せられた。『なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。』)

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