2022年5月9日月曜日

主はまことの養い主(上)

イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物をもっていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」(マルコ8・1〜3)

 これは群衆を養い給うた第二回目の奇蹟の時である。二度も斯かる奇蹟が繰り返されてあるのは神が人を造り給うた以上は食物は必ず与えて下さる御思召を現わしたのである。『何を食べるか・・などと言って心配するのはやめなさい』の実物教育である。
 この群衆の大部分は好奇心のためにイエスを見に来た連中で、本当のものを求る者は僅少であった。それでも彼らは三日イエスと偕に居ったためにイエスはどうしても飢えしままで帰らせることは出来なかったほどに深い御同情の持ち主である。我々人間はモトモト天の父がこの世に生んで下さったのであるから、天の父は必要の食物は必ず与えて下さる。
 天の父が食物を御与えなさらない時は(それが老衰によってでも、病気によってでも貧乏によってでも)喜んでこの世を去ったらそれでよいのである。自分が死んだら子供が可愛そうだなと思う。けれども子供も私と同じく天の父からこの世に送り出されたのであるから同じことである。何も無理にこの世に長く居るのが幸福なわけではない。
 要するにパンの問題は人間さえ悔い改めて行けば神は必ず解決し給うのである。奇蹟を行ってでも、または新しい発明を人に与えてでも。空気の中からでも土の中からでも。

祈祷
父よ、信なき私どもを憐んで下さい。あなたの大愛を徹底させて下さい。あなたが造った私である事を覚え、あなたが養って下さる事を信じ、またあなたがこの世からお取りになる事を信じ、いつでも安心して何事にも『憐み給う主』を見上げさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著129頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、デーヴィッド・スミス著『受肉者耶蘇』492頁、30章 彷徨 の3「再び奇蹟を以て養わる」である。

 山上の奇蹟は忽ちにして群衆の熱狂を醸しイエスの困惑は一層に加わったので、これを脱出するの手段を構ぜんと決心せられた。イエスは如何にもして彼らを去らしめようと欲せらるるも、なお群衆はイエスに取っても誠に憐れに見えるのであって、この雲霞の大衆を眺められては聖旨自ずから悲しからざるを得ないのであった。彼らのうちにはフェニキヤの遠隔の地方から遥々随従して来たったものもあって今や疲労し尽くして居た。その蓄えた糧食も悉く費やして、この荒涼たる地においてはこれを求むることを得べくもなかった。
 イエスにしてもし彼らをそのまま遺棄せらるれば、彼らは飢餓に迫るの他はなかった。イエスは弟子を顧みて『かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物をもっていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。』と仰せられた。曩にイエスがこれに超ゆる群衆を養われたことを記憶せる弟子たちはこれをイエスに委ねて『こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。』と答えたが、これはさながら『これは私たちにはできません。あなたの聖手に委ねます』という意味であろう。イエスはどれだけの蓄えがあるかを彼らに問われたが、ガリラヤの土民の常に糧食とする七つのパンと少しの魚があるばかりであった。イエスはこの僅少の蓄えを取って、これを祝し、四千人以上の群衆の一団にこれを頒たしめられた。これが充分に用に足れるのみならず、余りの屑は七つのかご(籠)に溢れた。)

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