すると、ペテロが口出しして、イエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マルコ9・5)
ペテロを非難する註釈者が多い。が、私には非難が出来ない。私も同じ感を起こすに相違ない。ペテロはどんなに嬉しかったのであろう。文字通り有頂天になってしまったのである。嬉しさの余り気が転倒して山麓に残っている九人の弟子のことも何も考えなかったのである。『私たちがここにいることは、すばらしいことです』と。すばらしいはずである。天国の一部が示されたのではないか。しかしイエスにも弟子らにも地上においてなすべき仕事が残っている。それを成し遂げるために一旦山を下らなければならない。然り、私たちはイエスと共に山に登らなければならない。時に『高い山に登って』高い世界に新鮮な霊気を呼吸せねばならない。が、また山を下らなければならない。山上で得た力と喜びとをもって山を下って働かねばならない。
祈祷
主イエスよ、私にあなたと偕に山に登ることを教え、山に登って白く輝く者と交わることを教えて下さい。しかし、また山を下ることを教えて下さい。あなたと偕に山を下りて犠牲と奉仕の戦いを戦うことを教えて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著148頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 デーヴィツド・スミスの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』は32章 苦難と栄光〈5/19記事参照〉の10「変貌」と題して
イエスは天の父との交わりによって霊魂に休養を得ようとしてここに来られたのであったが、祈っておられる間に言語に絶する奇蹟が行われた。聖マタイは言う『御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった』と言い、聖マルコは『その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった』と言い、聖ルカは『御衣は白く光り輝いた』と言っている。そして、そこに二人の人物がイエスの伴なる人として現われた。これはモーセとエリヤであって、彼らは『イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期について』イエスと物語ったのであった。
疲労していた弟子たちは眠っていたが、やがて眠りを妨げられて、始めてしっかり目が覚めるや、この驚くべき光景を目撃した。まもなく幻が消え始めたので、もともと熱烈であるペテロはこの天来の訪問者を引き留めようと考え『先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ』と叫んだ。これは実に愚かな言葉であった。聖ルカは『何を言うべきか知らなかった』と評している。ペテロがもう少し思慮があれば口を噤〈つぐ〉むべきところであった。しかし、彼には彼の目的があり、まことに粗暴極まる考えであったが、なお厚い好意をあらわし、忠誠の思いのある者でなければ思い浮かべないものであった。
彼はその苦難に関する主の宣言を片時も忘れることができなかった。そして山頂の光景はその苦難をお逃れになるべき一方法であると彼には思われた。彼は心ひそかに『なぜこの神聖な地を離れるべきだろうか。何のために平地に降って、その渦中に身を投ぜられるのか。何のためにエルサレムに登って、恐るべき残虐に遭われる必要があるのか。願わくはこのすばらしい山中に永住して、長くこの天来の伴なる人と偕にいさせていただきたい』と考えたのであった。
彼のことばがまだ終わらない時に、雲は彼らの頭上を覆い、主のバプテスマの時に天が開け、聖霊がイエスさまの上に臨んだように、彼らは天上から御声が『これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい』〈マタイ3・16〜17、マルコ1・10〜11、ルカ3・31〜32〉と言うのを聴いた。彼らは恐怖で顔を伏せて倒れ、イエスが起きよと命じられるまで、立つことができなかったが、彼らがあたりを見まわした時には、モーセとエリヤはもはや去って、イエス独り残っておられるのを見るだけであった。)
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