汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐやって来て、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。(マルコ7・25〜26)
「ギリシヤ人』とは単に異邦人と言う意味である。生まれはフェニキヤ人と明記してある。彼女が如何に熱心に救いを求めたかはマタイ伝により詳しく書いてある。イエスを途上に待ち受けて呼びかけ叫び続けてやまなかったのである。『イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」(マタイ15・21)でも『小犬』と呼ばれても、ひるむことなく怒ることなく、熱心と謙遜とを以ってついに祈願を聞き届けられた。この熱心、この忍耐、この謙遜、実に我々の祈祷の好い手本ではあるまいか。同時に斯くまで人間に熱心、忍耐、謙遜を与える母性愛の尊さを感ずる。父となり母となることは大いなる教育を受けることである。否、それのみではない。真剣に切実に人を愛することは人格向上の最大教育である。愛と祈り、この二者が合して一つとなる所、それは実に神の聖壇である。よく愛しよく祈る者、天使の姿がその人の中に生まれつつある。
祈祷
神よ、願わくはこの女の如き祈りを与え給え。この母のこの子を愛する如く、祈りをもって愛するの道を私に教え給え。この熱心この忍耐この執着この謙遜を私の祈りにも与え給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著122頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はクレッツマンの『聖書の黙想』117頁からの引用、昨日の続きの文章である。
しかし、彼の通られる所は、一人のスロ・フェニキヤの女につきとめられてしまった。彼女はそこへやってやって来て、御前にひれ伏し「自分の娘から悪霊を追い出してくださるように」と熱心に乞うたのである。これは、まさに、注目に値する場面だった。おそらく、エルサレムへ下る巡礼者たちを通じて聞き及んだのであろうが、一人の異教徒の女がイエスを知って、約束の救い主として、彼を信ずるに至ったばかりか、その信仰がこんなにも並外れた力強さを示したのである。
ここで私たちが見るように、イエスは女の心を試みられ、その試みを通じて揺るぎない信仰をお築きになった。まず最初、主は女に、全くそしらぬ風を装って見せられた。それから、女が御前にひれ伏して、更に熱心に懇願すると、彼はこの上もなく不親切とも思える言葉を吐かれた。「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」と。そして、女が「主よ。私をお助けください」と言い続けると、今度は徹頭徹尾、残忍とも思える言い方をされた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです』。
こんなやりとりの間中、ずっと、イエスの胸は、この女を肉体的にも、精神的にも救いたいという願いで、うずいていた。だから、彼女が、「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずはいただきます」と素早く答えた時、イエスは喜びにあふれて、彼女の信仰をほめたたえ、「お帰りなさい」と言われた。確かに、女が家にもどってみると、娘は全く健康を回復して、寝台の上に起き上がっていたのである。)
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