さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。(マルコ9・14)
山上と山下と、これほどの相違がある。傍観者のペテロでさえ山の上に留まりたかったのであるから、ご本人であるイエスにとって、山の上に留まることはどれほど楽しい事であったかしれない。 けれども山下にある弟子と群衆との中に下り給わねばならなかった。これ実に主が天を棄てて地上にご降誕なさったのと同じ心である。苦しめる者を救うためには自分が苦しめる者の真ん中に入って行かなくては居られない心。山上が如何に光栄に満ちた所であっても、呻吟し論争し苦悶する人々の中に下って行かずには居れない心。これ実にキリストたるイエスの御心であった。誠に有難いことである。私どもはこの主によってこの世の悩みから救われ、またこの世の悩める者に奉仕することができるようになるのは嬉しいことである。
祈祷
主イエスよ、あなたに従って山に登り祈ることを学ぶと共に、あなたに従って山を下り、人と共に苦しむことを学ばせて下さい。モーセ、エリヤと共に山上に留まらんことを願った当年のペテロもついにローマにて殉教の死を遂げたように、私たちにも兄弟のために命を捨てる心をお与え下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著157頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。クレッツマンは今日から始まるマルコ9・14〜29までのところを、21「主よ、信じます。不信仰なわたしを、お助け下さい」という表題でもってまとめあげ、次のようにその総論を述べている。〈『聖書の黙想』140頁より引用〉
世界のすべてのものの中で、最も大切なことは、「わたしは信じます」という言葉が言えるようになることだ。一人のまことの神と、彼がつかわされたイエス・キリストへの信仰なしでは救いはありえない。神の恵みによって、人はだれでもこの言葉を吐けるようになるが、聖霊のはたらきなしには、この世で最も賢い人でも、この言葉の言っている信ずるという意味すらつかむことはできない。弟子たちは、つい少し前に、彼らの信仰について立派な告白の言葉を口にしたばかりである。しかしここでは、その彼らの信仰が、決定的な瞬間には役に立たなかったことを明らかにしている。
この箇所に見る、あわれな、思いまどった一人の父親の姿に私たちは何を教えられるだろうか。
主よ、私たちのすべてのものに、信ずることを教えたまえ。
そして、各論に入る。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたイエスが、御姿を山上で変えられたという、異常な経験は、この弟子たちの心を、汚れたこの世を超えた所に引き上げていた。彼らは天国の至福を心に抱いた。もっと小さい経験ではあるが、私たちにとっても、みことばと聖礼典とを通して神の父としての圧倒的な愛が迫ってくる時、神の近さを感ずる瞬間を持つこともあろう。
しかし、この世においては、人生の現実に立ち戻らねばならないことは、避け得ない事実である。この小さなグループが山から下りて来た時、他の弟子たちが騒ぎ立っている群衆に取り囲まれているのが見えた。群衆の中で、目立っていたのは律法学者であった。)
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