2022年6月17日金曜日

弟子たちの失敗の理由(中)

イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(マルコ9・28〜29)

 イエスは祈りの人であり、祈りの力の信者である。祈りは事件を変化する力があると信じたお方である。祈りは病を癒し悪霊を追い出す。このような力は祈りによるのみだと仰せられたではないか。祈りを精神上の訓練に過ぎないと考える人や祈りは外界の事件を変化しないと考える人、などはイエスを迷信家と見る人でなければならない。このような人たちは理論負けをしている人たちである。理論と事実と合致しない時は事実によって、理論を訂正すべきであって、理論によって事実を曲げるべきではない。イエスのように聡明叡智のお方が体験しかつ信じなさった事実である。イエスにならってよく祈る人もまた多く体験しかつ信ずるところである。然り、祈りは単に精神の訓練や刺激のみではない。祈りは活動の源泉ぐらいなものではない。祈りそのものが、よく人を動かし、よく事件を動かし、よく世界を動かし、よく天地を動かすのである。

祈祷
朝に祈り、夕に祈り、断食して祈り終夜祈られた主イエスよ。私に祈ることを教えて下さい。私にもあなたのように祈ることを教えて下さい。私にもあなたのように祈りの力をお与え下さい。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著167頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下の小文はA.B.ブルースの一連の『変貌』の文章http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/05/blog-post_31.htmlの最終部分に位置する文章である。『十二使徒の訓練』〈村瀬俊夫訳〉330頁より引用。 

 こうしてイエスは、この新しいあわれみの奇蹟をなされた後、弟子たちが病気の人々を次々といやせなかった原因について、彼らに根気よく説明されたのである。また、どんなに頑強に人を押さえつけていたところで、そのあらゆる種類の悪霊を信仰と祈りによって追い出す方法を弟子らに教えられた。それでイエスは、ご自分が本当に「完了した」と言うことのできるその時まで、気の毒な人々を助け、無知な人々を教え諭す労苦を惜しみなく続けられたのである。

※この文章の最後の「完了した」とはまさに十字架上のイエスさまの言〈ヨハネ19・30〉を指すのは言うまでもないだろう。そう理解するとき、主が如何に私たちの愚鈍さに最後まで付き合ってくださったか、そのことを知り、さらに深い主への感謝の思いにさせられるのは私だけだろうか?) 

0 件のコメント:

コメントを投稿