2022年6月27日月曜日

この子供のように!(4)

『だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。・・・』(マルコ9・37)

 『だれが一番偉いかと論じ合う』心は天国の心ではない。天国人の心は互いに受け入れる心である。この受け入れる語が意味深い。相愛するという語も善い語である。仲良くするという語も善い語である。互いに親しむという語も善い語である。けれども『互いに受け入れる』という語にはまた特別の持ち味がある。自分の仲間に受け入れる。自分の家に受け入れる。自分の心に受け入れる。いろいろの受け入れ方はあるであろう。

 しかし人を受け入れる心持ち、これは確かに天国人の心持ちであろう。人を自分の中に取り入れる心である。排斥する気持ちの反対である。人の欠点をのみ見たがる心の反対である。他人というものを自分というものの一部として見て行く心持ちである。一心同体となったというわけではないが、他人の美点も欠点も自分のもののように考える心である。これは実に自分の周囲を美しくする最善の道であろう。

祈祷
主よ、願わくは、私たちの衷より互いに争う心を取り去って下さり、互いに受け入れる心をお与え下さい。人の善も悪も自分のものとしてこれを悲しみ喜ぶ心をお与え下さい。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著178頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下の長文は、昨日に引き続くA.B.ブルースの所説である。

 イエスが弟子たちに教えられた第二のことは、小さい者たちを受け入れる義務についてである。小さい者たちとは、文字通りの子供を指すだけでなく、子供が代表するすべての者ーー弱い者、取るに足りない者、無力な者ーーを表している。心のへりくだった者の手本となるためにイエスの腕に抱きよせられた子供は、次いで、身分・影響力・重要な地位があってもへりくだった者の手本となった。前者の場合、子供が模倣の対象として弟子たちの前に差し出されていた。後者の場合、イエスご自身が親切な取り扱いの手本として、弟子たちにそうするように命じられていた。小さい者たちを親切に愛をもって受け入れ、冷酷無情な仕打ちで彼らを辱めることがないように注意せよ。

 子供のようになることから、弱さの面で子供のような状態にあるあらゆる人を受け入れることへと思想が移っているのは、ごく自然な成り行きであった。なぜなら、偉くなりたいという利己的闘争心と、小さい者たちを見下す態度との間には、深い結びつきがあるからである。相手を見下す冷酷無情な態度は、野心に燃える精神と不可分の悪徳である。野心家は残酷な性格の持ち主とは限らないが、冷酷無情な心を抱くようになる可能性を持っている。時として、彼を捕らえている悪霊が沈黙しているのに、子供や子供によって代表される小さい者たちをいじめてやろうという思いが、彼らの心にむらむらと生じてくる。すると、怒りがこみあげて相手を侮辱するような考え、あるいは、そのような考えがあることをうかがわせる態度が現れる。

 ハザエルは預言者エリシャから「あなたは、彼ら〈イスラエル〉の要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼児たちを八つ裂きにし、妊婦たちを切り裂くだろう』と将来の自分について言われた時、エリシャに対して怒りをこめ、「しもべは犬にすぎないのに・・・」と言い返した。しかしその時、このような残忍な罪を犯す恐れが、彼には本当にあったのである。そしてさらに、彼にはエリシャの指摘したすべてについて身に覚えがあった。エリシャは正しく彼の性格を言い当て、それに照らして彼が将来犯すであろう恐るべき悪事を見透したのである。ハザエルは野心的であって、当然、それに他のもろもろの悪事がついてまわることを、エリシャは見抜いていた。ハザエルはまず、自分の主人であるアラムの王を、彼の病気回復が気掛かりだったので殺してしまう。王位につくと、主人を殺害したのと同じ野心がさらに彼を征服欲に駆り立て、そうして行くうちに、ついに古代東方の専制君主の残忍な喜びを満足させたようなあらゆる蛮行をやってのけることになるのである。

 野心が引き起こす犯罪とそれが地に満ちた時の悲惨は、日常的なことである。この事実を百も承知しておられたイエスは、その目に映る幻の中で、地位や権力によってすでに現れた、そして将来現れる荒廃を見て「つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです」と叫ばれた。忌まわしいのは、悪に苦しむ人だけではない。さらに大きな忌まわしさが、悪を行う人のためにとって置かれる。イエスはそう弟子たちに教えて、「つまずきをもたらす者は忌まわしいものです」と言われた。

 イエスは聴衆を、つまずきを与える者の定めのままに暗やみに放りっぱなしにはされなかった。ひ弱い無力な者に加えられる災難を思い、義憤に燃える口調でこう言われた。「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」〈マタイ18・4〉「・・・のほうがましです」は、「そのほうがふさわしい」「そうなるのが当然である」という意味である。そこには直接表現されていないが、神の復讐が行われるときに人の負う運命が暗示されている。石臼は無用の比喩ではなく、高慢な者たちがたどる究極の運命をぴったり表象している。最高の地位につくのに貪欲な者は、小さい者に与えたつまずきにかかわりなく、地上に投げ落とされるのみならず、その首に重い呪いの重しをかけられ、そのまま二度と浮かび上がらないように大海の深みにまで、いや地獄の底にまで沈められるだろう。「彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。」

 自分本位の野心はそのような恐るべき運命を招くので、自分自身を罰することによって神を恐れ、神の審きを見越して手を打つ高潔な態度が望まれよう。前に山上の垂訓で一度語られた「罪を犯した体の一部を切り捨てよ」という厳しい命令を再び繰り返すことによって、イエスはそのことを弟子たちに勧められた〈マタイ18・8〜9、5・29〜30)〉。

 一見、この命令は場違いの印象を受ける。というのは、ここの主題は他人につまずきを与えることであって、自分自身がつまずくことではないからである。しかし、兄弟に対するあらゆるつまずきは自分自身をもつまずかせることであると考えるなら、その関連性は明らかになる。それこそ、キリストが弟子たちの肝に銘じさせようとした点である。利己主義が小さい者たちをつまずかないように慎み深い配慮を命じている、ということを彼らに悟らせようとなさっている。要するに、偉大な教師〈キリスト〉は次のように言われている。「手や、足や、目や、舌によって、この小さい者たちの一人を傷つけるくらいなら、自分の手や、足や、目や、舌を切り捨ててしまいなさい。御国における一番小さな者に対して罪を犯す者は、自分の霊に対しても罪を犯すのです。」

※読んでいて空恐ろしい思いにさせられる。如何に自らが己が魂に対して無感覚かを教えられるからである。A.B.ブルースはこれら一連の解き明かしの際『気質の訓練』と題し、副題は「謙遜」としている。マルコ9・33〜50まで続く延々とした主の勧めが如何に私たちの本質を衝き、悔い改めを迫るものであるか改めて思わされる。今、世界が注視しているプーチン氏の犯罪的行為は全く神を恐れない暴挙であることは言うまでもない。何とかそこから離れるようにと祈りたい。なお、本文中の下線部は引用者が引いた。) 

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