2022年6月12日日曜日

父親の訴え(中)

するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」すると直ぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」(マルコ9・23〜24)

 純一無雑な信仰。単純無垢な信仰。主が私たちに要求されるところはこれに外ならない。私たちにこれさえあればその他の一切は神が成し遂げて下さるのである。『もし、おできになるものなら』などと言う雑念は不用である。『信じる』のは私たちの仕事であり、『成し遂げる』のは神の仕事である。エレミヤ書(33章2節)に『事を行なうエホバ、事をなしてこれを成就するエホバ、その名をエホバと名のる者』という句がある※。エレミヤはこの信仰に立って預言した。そこに彼の偉大な力があった。昔は神天地を造られたが、今は自ら造られた世界の物質的法則に監禁されてしまったのであろうか。神は自ら造った法則を自ら破られない。しかし人間にすら付与された自由をご自分でも保留しておいでになるそのご自由が物質界の法則を破らないで、しかも超越して働くのである。私たちの神は実にこのような神である。信ずる者のために『事を行なうエホバ』である。『事をなしてこれを遂げるエホバ』である。

祈祷
主よ、我信ず、我が信仰なきをあわれみ給え。願わくは我に『事を行なう』信仰を与え給え。『事をなしてこれを遂げるエホバ』なる汝を堅く信じて動かざらせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著163頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。※青木氏は全て文語訳を用いておられるが、今まで能う限り新改訳に置き換えて来たが、今日の文章は新改訳では意味が通じないので原文にした。なおエレミヤ33・2の新改訳は「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主」と訳す。)

0 件のコメント:

コメントを投稿