さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す・・・」と話しておられたからである。(マルコ9・30〜31)
最後のガリラヤの御通過である。このたびエルサレムに上るのは十字架に上るのである。多分大道を避け、通行の人の少ない小道を選んで、静かに弟子らに最後のご教訓を与えつつ旅行されたのであろう。その話題はご自分の死であった。
幾度も明白に繰り返してこのことを教えたのは弟子らの心を最後の打撃に準備するためでもあったであろうが、十字架こそご自分の使命の完成であるがゆえにその意義について教えたかったのであろう。もちろん弟子らはこの時にはその御教えが十分に解らなかったが後になって生きて来た。
ヨハネが『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます』(1ヨハネ1・7)と言い、ペテロが『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、・・・私たちを神のみもとに導くためでした』(2ペテロ3・18)と言って十字架の死が贖罪のためであることを説くに至ったのはこの静かな旅行の時の御教訓が生きて来たのだと思われる。
祈祷
死をもって私たちをお救い下さった主よ、あなたの恵みを感謝申し上げます。願わくは私たちがこの大愛を忘れ去ることなく、常に御血潮の中に生きられるようにして下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著170頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。これから数日間にわたるイエスさまと弟子たちの間の話〈青木さんの一日一文は今日から6/28まで丸々十日間にも及ぶ〉に最もふさわしい文章はないかと探していたところ、再び『十二使徒の訓練』所収の考察が目にとまったのでそれを以下に転写する。13 変貌 に続く 14 気質の訓練 と題する一連のA.B.ブルースの論考である。〈同書331頁より引用〉
題して 1 この子供のように! (マタイ18・1〜14、マルコ9・33〜37、ルカ9・46〜48)
変貌の山から、イエスと十二弟子は、ガリラヤを経てカペナウムに戻った。この家路につく旅の気分は、師と弟子たちとでは、はなはだ異なっていた。イエスは悲しげに十字架について思い巡らしておられた。弟子たちは近づく御国における要職の地位を空しく夢見ていた。こうした精神的相違は、それに応じる行動的相違となってはっきり現われる。イエスは近づくご自身の苦難について、第二回目の告知を始められた。ご自分について来る人々に向かって、「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります」と言われた。・・・ 続く。なおこのブログを始めて読まれる方は過去の記事「『変貌』の意味するもの』http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/05/blog-post_29.html などを参考にしていただくと文章の流れがご理解していただけるのでないかと思います。)
0 件のコメント:
コメントを投稿