イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで言われた。(マルコ9・35)
マルコ伝には主イエスの細かい動作が書いてあるが、親しく目撃した人の証言として嬉しい。私どもをイエスに近く導いてくれるように感ずる。『おすわりになり・・・呼んで言われた』。いかにも落ち着いた、威厳と慈愛との籠もった御態度を示すように思われる。子供が悪いことをした時に、卒然としてこれを叱り飛ばすとかえって面白くない結果を生む。私の如き者ですから私の子供が幼少の時、これを叱るときは先づ自らの心の平静を祈り、二階の机の前に座り、彼を呼び寄せて、諄々と説くように努力したものである。
今、十字架にかからんと為し給う大切な時に当たって『だれが一番偉いかと論じ合う』ような不都合な弟子らに遺言にも等しい最後の訓戒を与え給うに当たって、少しも焦らず怒らず、『座って』『呼び』『これに言い』給うた静かな態度が如何に弟子らを深く印象したことであったろう。さればペテロはこの時のご様子をマルコに言い聞かせたのであろう。争った弟子たち、黙然たる弟子ら、静かに坐し給うイエス、その対座の光景などを心に浮かべる時、それだけでも大きな教訓が私どもの心に迫ってくる。
祈祷
主よ、焦りやすく、慌てやすく、動きやすく、怒りやすく、争いやすき私たちをご覧ください。このような時、願わくは、私たちをして、先ずあなたの前に静かに座ることを教えて下さい。何事よりも先ずあなたと対座する術を学ばせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著173頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。ここでしばらく離れてしまっていた、デーヴィッド・スミスの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の記述に戻る。これは6/16https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/06/blog-post_16.htmlの続きに位置する文である。
4 「カペナウムへ向かう」
今やイエスはその隠れ家を去られる時が来た。なおカイザリヤ・ピリポに留まられる希望はあったけれども、とても十二使徒とのみと交わることができない場合となった。その隠遁の地が公になったので煩わしい群衆と毒心を含む敵がすでに迫って来ていた。それゆえに、その眼を避けながら、ガリラヤを経てカペナウムに向かわれた。弟子にはなお教育を授けられる必要があったので、途上においてこれを様々に訓戒する望みを抱いておられた。この鄙びた地方を旅行される間に極力正当な観念に彼らを導こうとして、その受難の恐ろしい宣言を与えて、彼らの頑迷な不信を寸断されたのであった。
〈再び受難の公表〉
『このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。』〈ルカ9・44、マタイ17・22、23〉と仰せられた。ここでは受難に加えて謀反に関する恐るべき事情をあらかじめ公表された。彼らがこれを聞いて『非常に悲しんだ』〈マタイ17・23〉『尋ねるのを恐れた』〈ルカ9・44〉のも道理であった。彼らは悲境に陥られたあの失望の時、カペナウムにおいて仰せられた『わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です』〈ヨハネ6・70〉との苦いみことばを思い浮かべたのではあるまいか。これぞ彼らが自分らの中に謀反の伏在するのを初めて悟った時期であった。
このあと、デーヴィッド・スミスは5「未納の税金」6「ペテロの当惑」7「主の免税の権利」8「魚の口の金」と展開し、9「ペテロの家における教訓」と題して、まさに今日の引用箇所の前後の様子を次のようにまとめている※。
9 「ペテロの家における教訓」
その日、恐らく夜であったろう。弟子たちはペテロの家に集まった。而してイエスはその教訓をなお続いて彼らに授けられた。彼らは受難や復活のように高遠な真理に心を向わせられる必要があっただけでなく、なおその世俗的なパン種を除いて天の王国の精神に浸される必要があった。而して静かに彼らと交わり、高尚な議論を試みられた結果、イエスは彼らの心中に横たわる思想を看取されたのであった。
〈謙遜の教訓〉
先ず第一に謙遜についての教訓を彼らに授けられた。イエスは彼らの世俗的野心を弾劾されたけれども、彼らを面責するのでなく彼ら自ら質問を試みるように仕向けられた。カイザリヤ・ピリポの途上弟子たちは足並みが聊か遅れた間にも、主の高い思想から落ち下がって、その本来の面目を発揮して密かに論じ合ったところであった〈マルコ10・32参照〉すなわちイエスが謀反人に渡され、苦難を受けられるべき予告を力を極めて与えられたあと、そのことばの未だ耳に残る間のことであって、しかもなお物質的応報に恋々として、主が大権を掌握して、エルサレムに君王として臨まれる場合に、彼らの受けるべき将来の栄華をのみ夢見て論争していた。これ畢竟彼らの心の鈍重頑迷な憐むべき証拠であった。このようなものが彼らの胸中に絶えず漂う光景であって、旅行の途中も、イエスの耳には達しないように囁きつつ争った。野心と嫉妬とは彼らの間にしばらくも去らないところであって、遂に論争は爆発した。すなわち『天国において最大なるものは誰だろう』との問題であった。
しかし彼らはその主の注意を脱することはできなかった。その時イエスは何事もおっしゃらなかったけれども、家に着してから、問題の如何を質問された。
※青木氏のマルコの福音書を軸とした一日一文形式の霊想に対して、いつの間にかクレッツマン、デーヴィッド・スミス、A.B.ブルースの論考を並行して読むようにと導かれたが、クレッツマンは青木氏と同じマルコの福音書を軸に語っている。それに対しデーヴィッド・スミスの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』は全福音書を頭に置きながら語る。そして、A.B.ブルースの『十二使徒の訓練』は表題からしてイエスさまの一部始終を描いたものと受け取っていなかったが、これまた全福音書を視野に入れた明らかに〈Days of His Flesh〉の一種である。このように、四者を交互に織り交ぜて紹介させていただいているが、読者においてもそのことを念頭に置いてお読みいただけると幸いである。)
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