さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1・35)
昨夜は遅くまで押し迫る群衆に、あるいは道を説き、あるいは病を癒し給うたイエスは今朝は御疲労で、せめて朝だけでもゆっくりなされるかと思ったら、まだ暗いうちに家を抜け出て祈っておられた。かなり永い時間祈り給うたことは『祈り居給う』(※)の語に明らかに読まれる。
朝寝することは昔から何人にも賞賛されない。主イエスですら一日の戦闘準備として、朝早く起きて祈ることを必要とし給うたならば、私たちにその必要のないはずはない。今日の一日に何が私たちを襲ってくるか知れない。用意なくして戦陣に臨む者に勝利のないことはきまっている。
夕べの祈りもたいせつである。時々刻々にも祈らなければならない。しかし、朝の祈りほどたいせつなものはない。五分でもよいから、早朝の祈りを必ず実行する習慣をつけたい。起き出でたら直ぐ働かなければならない境遇の人は床の中で先ず祈ってから起きよう。
祈祷
朝まだき暗きほどに、起き出でて祈られた、主イエスよ。願わくは、私にもあなたの祈りをお与えください。あなたの朝の祈りを私にくださって、日毎に善き戦いの準備をさせてください。アーメン
(※青木さんはここで、イエスさまが祈っておられたのはかなり永い時間であったと述べ、その証拠に『祈り居給う』という表現に注目されている。ところでこの『祈り居給う』は文語訳聖書の言葉使いであって、口語訳も新改訳もいずれも『祈っておられた』と訳している。しかし言外にその祈りの時間が永かったことが推察される。"And in the morning, rising up a great while before day, he went out, and departed into a solitary place, and there prayed."欽定訳聖書)
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