2022年1月23日日曜日

大きな信仰

さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心 一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。(マルコ1・40〜42)

 私の最も好きな箇所の一つである。昔は中国のなんとか言う将軍が兵卒の化膿した傷口を自分の口で吸うてやった。兵卒はこの将軍のためには生命を惜しまなかったと言う。イエスは爛(ただ)れたらい病人を見て、これに手をつけずにはおられないお方であった。

 私はらい病人と握手するほどの愛がどうしても生じてこない。ただ一度だけ瀕死のらい者の毛の抜けたネバネバした頭に手をつけて祈ったことがある。これは久しい信仰の友であったから思わずそんな気になったのであった。

 イエスは見ず知らずのらい者にも『あわれみ、手を伸ばして、彼にさわ』らずにはおられないお方であるから、私のような罪と汚れのらい者にもキッと、手を伸ばして、さわって下さるに違いない。

祈祷

主イエスよ、今日も私をあわれみ、手を伸ばして私にさわって下さい。私はあなた無くしては自分できよくなることは出来ず、自分を救うことも出来ないからです。主よ、願わくは、先ず私に私がらい病人であることを悟らせてくださり、手を伸ばしてさわり、きよくして下さい。アーメン

以下は同一箇所のクレッツマンの霊解(『聖書の黙想』37〜38頁より引用)である。

 主はこのガリラヤ旅行で一人のらい病人に出会われた。この男は、敢えておそば近くひざまずき、おそれおののきつつ、助けを乞うた。何と大きな信仰が、この彼の言葉にあらわれていることか。「お心 一つで、私はきよくしていただけます」。この男は、主は、自分を助けることのできるかただと、確信していたばかりではなく、主がなし給うことはどんなことでもよいことだと信じていた。たとえ主が、彼に、その忌まわしい病気を持ったままで、墓に行けと言われたとしても、彼はなおもこの主の下にひざまずいて、この主に従ったであろう。この名も知らないガリラヤ人は、わたしたちをはずかしい気持ちにさせる。何とわたしたちは、試みの時に不平を言い、忍耐を持ってイエスを待つことができずに、彼の御心を疑い、彼の助けの力を疑うことだろうか。

 イエスは、この男の信仰を通して深く彼の心に触れられる。神の哀れみは、彼の内から泉となってほとばしる。主は、心動かされつつ、人からは見棄てられながらも、イエスが自分を助けようとし、また助け得る方だと確信しているこの男に触れられる。そしてこれに加える何らの儀式も時の間もなく、この男はまったくいやされたのである。

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