2022年1月13日木曜日

驚いてばかりではダメだ

人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。(マルコ1・22)

 『律法学者たちのようにではなく』とはイエスに学問が無いように見えたと言うのでないことは言うまでもない。ここに言う『学者』は聖書の筆写を業とする人たちで、聖書の字句にのみ明るく、その精神には暗かった。従ってその言うところも形式のみに囚(とら)われていた。イエスはこれらの人々と全く異なっていたのである。

 真理の根底に触れたイエスのお話はまた人心の根底に触れなければ止まなかった。神より出でて神の言葉を語り給うたイエスのみことばには権威があったのは当然である。イエスのみことばは必ずそのことばのように実行される力が伴っている。

 イエスの命じ給うことは必ず成り、イエスの教え給うところは必ず実現するのである。然るに惜しいことには、昔の人も今の人も一様にただ『その教えに驚いた』のみであって、これを信じ、これに従う者が、至って少ない。

祈祷

神よ。私たちはたびたびあなたのみわざに驚きます。しかし、御旨に従いみことばを守る心が自らの内に、少ないのを悲しみます。願わくは、私たちを憐み、驚くとともに喜んで慕う心をお与え下さい。アーメン

(今日の箇所をさらに深く味わうために以下のクレッツマンの文章を追加する。「律法学者たちが、罪人たちの霊的な願いや救いの求めにおかまいなく、彼らの手になった伝統を、人々に語るために声を渇らしていたのに対し、イエスは、聖書についての深い洞察を明らかに持っており、人々の魂深く、心をとどかせていた。彼の教えは、律法についての非現実な問題を、漠然と哲学化したようなものではなく、具体的であり、聖書的であり、そしてそれゆえに悔い改めと信仰とによる救いの道を、権威をもって展開するものであった。人々がすぐに彼にひきつけられたのは、何の不思議でもない。私たちの牧師が、神のことばから、また神のことばをもって救いの道を説き起こし、彼らの心を興味本位に占められているあれこれの問題についての個人的な意見を述べていない時には、何と感謝すべき時であろう」聖書の黙想クレッツマン著32頁より引用)


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