2022年1月28日金曜日

敵は「高ぶり」

律法学者たちが数人・・・心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ・・」イエスはすぐにご自分の霊で見抜いてこう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか・・・」(マルコ2・6〜8)

 あながちこれらの学者たちを悪く思わないでもよい。彼らはイエスの名声に対して幾分の嫉妬は抱いていたかも知れないがまだ敵視するまでには至っていない。むしろ公平にこの新進の若いラビを観察するつもりであったのであろう。

 彼らの論理には誤りがない。ただイエスが神であることを知り得なかったのである。だからイエスも彼らを譴責(けんせき)されないで、ご自身の真相を見せて、彼らの蒙(もう)を啓(ひら)く方法を取られたのは正直な懐疑者に対して同情あるなされ方であった。

 しかし、これでも信じなかったゆえに彼らは次第にイエスの敵となるに至ったのである。少しの学問を恃(たの)んで謙遜になり得なかった一歩の誤りがついに千里の差を生じてイエスを十字架につけるに至った。高慢ほど人を盲目にするものはない。

祈祷

心の中の一点一画をも見通しなさる主よ、願わくは私の心の中に潜んでいる敵を掃討してください。正義公平の美名に隠れている私の高ぶりを打ち砕いてください。アーメン

以下は、クレッツマン『聖書の黙想』44頁より引用

 しかし、そこには、このキリストの言葉だけでは、穏やかでない他の人々がいた。キリストのあとをつけていた学者たちである。彼らは、早くからそこに来ていて、イエスの一挙手一投足を見届け得る場所に座を占めていたが、この主のことばと、振る舞いの中に、悪意のほかは何も見なかった。ここには、とがめだてせずにはすませない何かがあると、彼らは考えた。

 この男は今神をけがす言葉を語っている。神一人のほか、誰が罪を赦すことができようか。その語るところは正しい。神ひとり罪を赦し得る。彼の主張は正しくて、しかも、彼が神かも知れないのだということは、人々には思いも及ばなかったのである。

 主は速やかに、学者たちにまたすべての人々に、そのことを証明したもうた。人々の思うところを読み取られたという事実は、彼が神の力を持ちたもうとの認識を人々に与えたに違いない。けれど、人々は、さらに、目の当たりにそれを見ることになった。

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