シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております。」と言った。(マルコ1・36〜37)
『その仲間』とはヤコブ、ヨハネ、アンデレたちであろう、イエスよりも遅く起き出でた彼らが狼狽(ろうばい)して『イエスを追って来』る姿が眼前に浮かぶではないか(※)。イエスに見出されてまだ間のない人々であるが、その心はまったく彼に惹(ひ)きつけられている。
もちろん、驚くべき幾多の奇跡を見たからであろうけれども、イエスの純白透明な霊魂と偉大にして円満な人格には誰の目にも慕わしいものがあったのであろうと思われる。けれどもあまりに純白なもの、あまりに偉大なものは太陽のようであって平凡な者は永く直視することができない。だから、多くの人々は先ずイエスに驚いたけれども、ついには離れてしまった。
ただペテロ、ヤコブ、ヨハネたちはイエスの偉大なる純白を慕い続けるだけの透明さを持っていた。この心である。私どもは到底イエスとなることは出来ない。ただ、いつまでもいつまでも『イエスを追って来』さえすればよいのである。
祈祷
主イエスよ、私は何らあなたに似たものがない者であることを悲しみます。しかし、少しでもあなたを慕う心がありますのを感謝申し上げます。願わくは、いつまでもあなたを慕って、あなたから離れないように導いてください。アーメン
(※この箇所の文語訳聖書のすばらしい表現を味わってみたい。『シモン及びこれとともにおる者ども、その跡を慕いゆき、イエスに遭いて言う。「人みな汝を尋ぬ」』)
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