2022年1月30日日曜日

主をほめよ、主をほめよ! 主の御名をほめよ!

すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。(マルコ2・12)

 イエスの言動は常に神の栄光を顕(あら)わすものであった。イエスの奇蹟を見て人々は神をあがめたとは度々記されているが、人々がイエスをあがめたとはどこにも書いていない。もちろんこれはユダヤ人が神をあがめるように習慣づけられていたには違いないが、イエスご自身の態度にご自分をあがめるように人の心をそそる何物もなかったからであろう。

 人々はイエスの大いなる働きを見ると神を思わずにはおられなかった。イエスの人格はまったく無私透明であった。『わたしを見た者は、父を見たのです。』(ヨハネ14・9)とはイエスの高ぶりでなくして、イエスの透明である。

 私どもは少しばかりの仕事をしても直ちに自己が大きくのさばり出て『私を見てくれ』と叫ぶ。イエスが何かなさった時には人々はおのずからイエスを見ずして神を見なければおられなかった。イエスの自己は影も形も消えて、神の御光栄のみが燦(さん)として輝いてくる。あたかも雲なき空には太陽がまばゆく輝くようなものである。私どもの心からも自己をあがめたい気分がまったく取り去られなければ本当に神をあがめることはできない。

祈祷

神よ、むら雲の月の姿をかくすように、私たちの自己崇拝はあなたの光をさえぎり、あなたの輝きをかくします。そうなれば私たちは日々暗闇の中をさまようばかりです。願わくは、私たちの存在、私たちの言動があなたをあがめるものとなしていただけますように。アーメン

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』45頁)

 主は彼を幸せと喜びに満ちた群衆の中に送り出される。人々は直ちにその男のために道をあけ、親しい友と喜びを分け合うために家路に向かう彼に、驚きとおそれのまなざしを向けたのであった。

 どうか私たちもまた、かの日のカペナウムの人々のように、他の誰もなしえぬことを成し遂げられたかた、すなわち、私たちを恥と咎から、罪の囚われとその力から、またその呪いと刑罰から取り出したもうかたの、驚くべき力を明らかに認めることができるように!そして、言い尽くせない彼の賜物ゆえに、神に、栄光を帰することができますように!

0 件のコメント:

コメントを投稿