鴨一羽 古利根川に へりくだる 主バプテスマ ヨルダン川に※ |
イエス自ら罪を感じられたことはない。それでは、何ゆえにバプテスマをお受けになったか。
一つには明らかにマタイ伝に書いてあるとおり、『このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです』(マタイ3・15)とのお考えからである。自分に必要のないことでも一般の(人の)ために善いことは進んで行なう精神である。
これはいたずらに他を批評して自らを高くする人のなし得ることではない。一般普通の善と称することに対する寛大な心を示している。自分の理想とするところよりも低い他人の善に快く共鳴する同情の心である。
二つにはイエスが私たち罪人の罪をご自分の罪とまで考えなさったのであろう。不良少年の罪は、これを自分の罪のように考え自分が先ず悔い改めて立派にならねばならぬと思う親心と同じであろうと思われる。
私が一つの罪を犯せば主イエスは私よりも先に私のために悔い改めのバプテスマを受けずにおられないほどに私と一つになっていて下さるのである。
祈祷
主イエスよ、願わくは私の高ぶりを砕いてください。私をしてどんな人の善にも心からの同感を与え得る謙遜を与えてください。他人の善を私の善のように喜ぶことができる広い心を私に与えてください。
(※古利根川は、今、川べりに数羽の鴨が、たむろしては、水中の魚はじめ餌をあさる姿が見える。写真はその中であえて一羽のみ撮影したが、付近には仲間の鴨がいる。イエスさまはヨルダン川でバプテスマを受けられた。その川べりはどんな状態だったのだろうか。それはともかく、そこにも「へりくだり」の姿が見られるのでないだろうか。)
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