それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。(マルコ1・21)
イエスの行動についてマルコはたびたび『すぐに』と書いている。ある人はマルコ文章の癖であると言う。そうかも知れぬが、私は思う、イエスには『すぐに』行動し給う癖があったのではなかろうかと。
善きことを行なうには『すぐに』実行するのが最も善い習慣である。グズグズしているとこれを実行する機会を失う。『すぐに、イエスは・・・会堂にはいって』の句の如きは実に痛快ではないか。いかに主イエスが安息日にいそいそとして礼拝堂に赴く習慣が子供の時から立派につけられていたかがうかがわれる。
(会堂は)パリサイ人らの集まる偽善者の集会であったかも知れぬ。それでもイエスはマリヤに連れられて幼少の時から安息日ごとに参拝していた善き習慣を破ろうとはなさらなかった。主は『すぐに、・・・安息日に会堂にはいり』給うお方であった。主の祝し給うたこのカペナウムの会堂の古跡が今でも残存しているのは面白い事実である。
祈祷
主よ、私を怠慢の習性より救って下さい。何事であれ善きことに対しては『すぐに』これを行動に移す勇気と信仰とを与えて実行の人とならせて下さい。アーメン
(今まで、『すぐに』と言うことば使いをマルコ伝特有のキビキビした文体の面からのみ読んでいたが、青木氏のこの伝で行くと、イエスさまの行動には『すぐに』がつきまとっていると言うことだ。日本語には「善は急げ」と言うことわざもあるが、私の場合、多分にその決断が遅く、及び腰になることが多い。イエスさまはいつも父なる神様と心が一つで、その『すぐに』と言う行動には何らの狂いもなかったに違いない。むしろ、『なすべき正しいことを知っていながら、行わないなら、それはその人の罪です』ヤコブ4・17と、主に行動を示されながら、先延ばししている私には、まさしく『すぐに』がイエスさまの純粋無垢な判断・行動に照らしてキーワードだと思った。)
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