2022年1月26日水曜日

みことばを話しておられた

 蝋梅の 花ほころびる 春を待つ※

それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。(マルコ2・2)

 イエスを最もよく理解した愛弟子ヨハネが彼を『ことば』と呼んだ(ヨハネ伝1章1節)それほどにイエスは『ことば』の人であった。

 『ことば』に力のある人であった。『ことば』に生命のある人であった。彼の『ことば』は彼の人格の流露であった。『ことば』と共に彼の実質が流れ出て人の肺腑(はいふ)を衝(つ)いた。人を救わないではやむことのないあるものが『みことば』となって迸(ほとばし)り出たのである。

 ルターのことばは半分戦争であったと言われているが、主イエスのみことばは『生きていて、力があり』(ヘブル4・12)であったと思う。だから、そのみことばを聞く者の中から救いを求めて『中風の人が四人の人にかつがれて』(マルコ2・3)やって来たのである。イエスの一言は直ちにこの人を救うことができると信じられたからである。

祈祷

ロゴスである神、私たちの救い主イエスよ、あなたのことばは生きていて力があります。あなたがひとたびお語り下さるならすべてのことは成りますので、あなたの御名を賛美申し上げます。願わくは、みことばの一句を読むときにも、空疎な文字として、これを読むことなく、その一語一語が躍り出て私を救うものであることを信じてみことばに耳を傾けさせて下さい。アーメン

以下の文章はクレッツマンの黙想より引用(『聖書の黙想』42頁)

 多分ペテロの家に戻られた主は、幾日かの静かな日々と、乱されない夜のいこいとを、望んでおられたことと思う。しかし、主が戻られたのを目にした人々は、いちはやく、耳から耳へとそれを伝えたので、彼らのある者は主を見ようとして首を伸ばしながら、また他の者は、主のことばを聞き逃すまいと、耳をそばだてながら、戸口のところでひしめき合った。多くの者は、それでも空しく心を残しながら引き返さねばならなかった。

 そして主は、何をなされたのだろうか。彼らに対して声をはげましてみことばを伝える以外の何かをなさったのだろうか。主はひたすら明白なことばで、しかも生命と力とに満ちた救いのみことばを彼らにもたらせようと心を砕かれたのである。

(※蝋梅について過去に何度か書いている。ほとんどが「義母」への思いだった。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/search?q=%E8%9D%8B%E6%A2%85 それを忘れたわけではない・・・)

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