谷口幸三郎作 |
『漁(すなど)る』の字は原語で『生きながら捕らえる』という意味である。あるいは永遠のいのちに導くように人を捕らえるという意味がふくまれているかも知れぬ。
イエスは人間の死に至るのを見て、これを生きながら捕らえて逆に死なせないお方である。ペテロ、アンデレの二人は先ず最初の『人間捕獲者』として召されたのであった。
魚を漁るのはこれを殺して食物とするためであるが、人を漁るのは死の海の中からいのちの国へと生け捕るためである。私どもは主イエスに生け捕られなければ、死と滅亡の海に沈み行くものであることを片時も忘れてはならぬ。
祈祷
主イエスよ。あなたは昔ガリラヤの海辺を歩みつつ、いかに人を生け捕らんかと苦心し給いしように、今も日々夜々私たちの生活の海辺を歩み給いつつ、あなたに従う者を求めておられます。願わくは、私たちもペテロのように一切を棄てて、あなたに従う者とならせて下さい。アーメン
(この著作物は、年初からお断りしているように、青木澄十郎さんのものであるが、引用にあたっては、今日の読者に合うように引用者が表現を若干変えている点があることをあらかじめご承知いただきたい。なお、彼はこの尊い『一日一文マルコ伝霊解』を始めるにあたって次のような注意点を書いている。もって銘すべき序文であるので遅まきながら以下に転写する。
信仰生活は日曜生活ではありません。日曜以外の日々の歩みが大切なのであります。イスラエル人が荒野で毎朝天よりのマナを拾ったように私どもも毎朝新しいマナを拾いましょう。昨日のマナは今日は腐っています。毎朝五分間でもいい、賛美歌をうたって聖句を味わい神に祈りつつ新しい日を迎えましょう。
目覚めよ我がたま 朝日にともない
主をほめたたえて みわざを始めよ )
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