2022年1月25日火曜日

「熱狂」と「従順」の違い

そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。・・・ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。(マルコ1・43、45)

 イエスを見ようとする者は多い。イエスに聴こうとする者は少ない。好奇心を満足するために評判の高い人を見ようとする浅はかな群衆に妨げられて寂しい所に留まられたイエスのお心にはより以上の寂しさがあったことと拝察する。

 理解のない群衆の中にあって見当違いの尊敬を受ける寂しさは、荒野の寂しさにまさるものがあったに違いない。祈ろうとされても祈らせないほどに、道を語ろうとなさっても、その機会をさえ与えないほどに、乱雑な群衆が四方から殺到して来たことは、イエスにとって、どれほどの寂しさであったろう。

 『聞く耳のある者は聞きなさい。』(4・9)と仰せになった主は、どんなに本当の主の膝下に座して静かに聴く者を求めておられることであろう。

祈祷

主よ、私が真にあなたを求める者とならせて下さい。あなたの不思議なわざのためではなく、またあなたの驚くべき力のためでもなく、ただあなたの口から発せられるみことばによって生きたいがためにあなたを求める者とならせて下さい。アーメン

再びクレッツマンの黙想より引用(『聖書の黙想』39頁)

 人々はこの奇跡によって熱狂的になってしまった。そこでイエスはしばらくこの群衆を避けねばならなくなった。彼は結局、多くの人々に真理を伝えようとしたので、町からは離れざるをえないようになり、さびしい所にひそかに退かれるのである。

 しかし、そこでも、彼を見つけた人々は、ガリラヤ各地からむらがり集まる。私たちは、イエスと教会に対して、善意の人々が、キリストと彼のみことばを深く理解するために、時間を費やしたり、努力したりせずに、彼ら自身の気持ちのままに行為し、誤った熱心さを示すことにより、かえって他の人々に誤ったキリスト教の見方を与えて、実際には福音を傷つけているのを知っている。

 それゆえに、キリストの一つ一つの命令は守られねばならず、彼のすべての言葉は、慎重に取り扱われねばならない。彼と彼の言葉に逆らって、私たちの人間的な判断を押し出すのは誤りである。どんなにまじめな熱狂も、信仰的な従順を生み出すことは不可能である。

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