その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。(マルコ2・4〜5)
万難を排してとは実にこれらの人の信仰である。中風の人は肉体においては自由を失っていたが信仰においては勇敢に行動した。私たちは肉体は自由であるかも知れぬが信仰の動作においてはかえって中風を病んでいないか、どれほど信仰が日々の生活の中に働いているだろうか。心細いものではないか。
イエスは外見は中風であるが、信仰はたしかな彼を見て直ちに罪の赦しを宣告された。ここにイエスの面目が躍如(やくじょ)としている。 病を癒すのでなく罪より救うのが使命だとするご自覚がハッキリ見える。
この人は中風を癒されたくて来たのではあるが、中風の根本原因として罪を自覚した。あるいはイエスの聖い人格の前に出たとき病気よりも罪の重さを感じたのかも知れぬ。
祈祷
尊い主よ、私はあなたの前に出るとき、果たしてこの人のようにあなたの聖さに打たれ、自分の罪を認める心があるでしょうか。願わくは、私に『子よ』との声を聞かせ、この中風を癒して下さい。アーメン
クレッツマンの黙想より(『聖書の黙想』43頁)
ここにあるのは苦しんでいる体ばかりでなく、いためつけられた魂である。天井から救いを願っている男たちの、強いまなざしに目をとめられ、あわれな病人の目にある希望と信仰の輝きを見て取られた主は全身全霊をもって応えられる。
そして彼のみが語りうる言葉を口にされるのである。「子よ、安心しなさい。あなたの罪は赦されました」。その男が、この言葉を耳にしたとき、希望は失望に終わらなかったことを確信しうる。彼は、彼が必要としている最大のものは過去の罪が赦され忘れられることであり、また、彼の主であり救い主であるこのかたによって、またこのかたの中で、彼が神との平和の中にあることを悟ることであったのだ。たとえ、来た時と同じように、友人によって病床のままで戻ることがあろうとも、そのことをもって彼は満足することができたに違いない。
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