2022年1月9日日曜日

悔い改めて

イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1・14、15節)

 神の国の福音は政治でなく社会事業でなく、もちろん哲学神学※でもない。悔い改めと信仰とである。真に悔い改めてキリストを信ずる所にはいつでも神の国の福音が待っている。

 誤ってはいけない。悔い改めは、洗礼を受ける時に一度すればよいと。主を信じ主に導かれ、主とともに歩む生活をするには、一度や二度の浅はかな悔い改めですむものではない。どんな純白な着物でも一度洗濯したらいつまでも白いものではあるまい。否、純白を維持するために余計に洗濯を要するではないか。

 私たちの中に(私たちの家庭にすら)速やかに神の国が来(きた)らないのは悔い改めが不足しているからではないか。他人を批評する心は余るほど持ち合わせて、自分を反省する心が欠けているからである。時々刻々に悔い改めて行かねば、キリストの福音もその効き目を申し上げる余地はない。

祈祷

天の父よ、願わくは私に謙遜と悔い改めの心を常に与えてください。願わくは私を怠慢と浅はかさとより救い、私に深刻なる反省と悔い改めとを与えてください。アーメン

(※ヨハネの福音書12章に、ギリシヤ人がイエスにお目にかかりたいと近づいた様が記録されている。その時、イエスは「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」と話された。ここをF.B.マイヤーは『日々の力』の中で「哲学と芸術の民、生粋のギリシヤ人に対して、主イエスはむしろ土と麦という自然の例、自然の聖書をもってしたとは賢いことです」と書いている。)

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