冬鴨を 数え上げての 散歩道※ |
理屈ではない、権威である。イエスを信ずる理由はことわざに言う『論より証拠』である。キリストの権威を実際において自分の身に体験するのである。
罪の赦された事実が、病を癒された事実によって証拠だてられ、罪の赦しと病の癒しとによってイエスが神である権威が実証されたのである。
イエスの奇蹟によってイエスが神であることを証明するのはあながち旧式な弁証論だと言うことはできない。イエスは今日でも私たちの生活の中に宿って、その権威を事実の上にあらわされる。
祈祷
神よ、私たちは科学と法則との名によってあなたを除外した地に住むことはできません。願わくは、あなたがその権威によって自由に働かれる世界に私を住まわせてください。アーメン
クレッツマンによる黙想(『聖書の黙想』44頁)
イエスは、罪ある良心の重荷からは、今はもう解き放されているこのあわれな男に身を向けられ、短いが力ある言葉をかけられた。『起きて、寝床をたたんで歩け。』
人々は、主が罪を赦す力があることを信じただろうか。学者たちは多分信じなかっただろう。なぜなら、見ようとしない者は、盲目同然だったからである。しかし、あの日に、またこの時代に至るまで、多くの者が、ここには罪を赦したもうかたがおられるのだとの確信の中に、尽きない慰めを見出して来ているのだ。
(※鴨をふくめ自然界、全被造物は主の権威に服している。などて人のみがそれを認めないのか。)
0 件のコメント:
コメントを投稿