そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。」(マルコ1・43、44)
イエスは肉体の病人をもあわれみ給う。けれどもさらに何十倍も霊魂の腐り行くのを悲しみ給う。私たちはこの心が持てない。肉体の病気には苦しむけれども滅び行く自分の霊魂をあわれむことすら知らない。
イエスはらい病人を癒したことがかえって霊魂を癒すご使命の妨げとならんとするのを見て警戒された。善き医者であることが世の救い主であることの邪魔となってはいけないと考えられた。本末転倒は小事のように見えてついには恐るべき大事となる。信仰においてことに然りである。
政治問題や社会事業の如きはいかに善いことであっても、キリスト信仰の代用をなさない。また信仰の本筋でもない。あるいは神癒の如きも同じことである。これらはみなキリストの救いが生ずる副産的結果であって、霊魂の救いこそ最も大切なものであることを忘れてはならぬ。
祈祷
主イエスよ、願わくは、私たちをして支流より本流へ立ち戻らせ給え。肉における恵みの大なるがために霊の恵みを忘るることなからせ給え。アーメン
以下は同一聖書箇所のクレッツマンの霊想。(『聖書の黙想』38頁より)
なぜイエスはその男を去らせながら、この出来事を知らせてはならないと戒められたのだろうか。その答えは多分こうであろう。この癒されたらい病人が罪よりの救い主としてキリストを伝えるためには、イエスについての知識を十分に持っていないことは見えすいている。
そして彼は、主の癒しの力に重きを置いていたので、それを聞く人々には、名声を望まれないキリストに対する、誤った印象を与えてしまうからである。イエスはむしろ、この男に、祭司の所に行って律法が命じているように捧げ物をしなさいと言われた。
主は、このことを通して、ますます反感を激しくさせて来ているキリストの敵対者たちに、一人の偉大な預言者が彼らの中にあらわれて立っていることを認めさせ、この真理に立ち向かうことを止めるようにと彼らに警告しようとされたのである。
私たちは、このらい病人がイエスの言葉にもかかわらず、喜びと心からの感謝のあまり出て行って、この奇跡をすべての者に開かれている可能性として示した気持ちは容易に理解できる。しかし、その直接の結果として、みことばの伝道は、明らかに妨げられてしまったのである。
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