2022年3月11日金曜日

何とも思われないのですか

弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」(マルコ4・38)

 かく悲鳴をあげた弟子たちの中でペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの四人はたしかにこの海で育った漁夫である。彼らがあわてるのだからよほどの台風であったに相違ない。が、熟練した水夫が山間で育った木工に海で救いを求めるのは、少し見当違いなように思われる。

 しかし、彼らはイエスには何か大きな力が宿っていることを感じていたからこのように叫んだのであろう。しかり、彼らはまだイエスが神の子であられることはハッキリ知らなかったであろうが、神から遣わされた預言者か何かであろうくらいは考えていたにちがいない。

 だから、困った時にとにかくイエスに叫ぶ。これは左もあるべきである。ただ『何とも思われないのですか』と不平の声、非難の語気がふくまれているのは甚だよくない※。イエスの態度がいかにも冷淡であるとでも思ったのかも知れない。甚だしい誤解であると言わなければならない。

祈祷

主イエスよ、私どもはこの世にあって恐るべき風浪と闘うとき、あるいはあなたが眠っておられるように感じることもあります。でも私どもはあなたの愛と力とを信じて疑うことなく一生懸命にあなたに向かって叫ばせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著70頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。※主に対する不平、非難は残念ながら私たち罪人の変わらない性質であることを思う。出エジプト15・24、16・2、17・3と荒野を旅するイスラエル人は、苦い水〈マラ〉、飢え、渇水と次々苦しめられ、その都度つぶやいたことがしるされている。しかし、果たして主はそのつぶやきに頬かぶりしておられただけだろうか。マラは甘い水になり、飢えにはマナが与えられ、渇水には岩から水が奔出させられた。すべて主は民の不平非難を覚え、そのみわざはその不平非難を凌駕するものであった。東日本震災11年、ロシヤのウクライナ侵攻から二週間、被災地の復興のさまざまな問題、ウクライナの人々の悲惨さを思う時、前途暗澹たる思いにさせられる。ただひたすら主のあわれみあれと祈る毎日だ。)

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