2022年3月14日月曜日

追い払われた悪霊のレギオン(1)

イエスが舟から上られると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。・・・もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。(マルコ5・2)

 天の父はあまりにイエスを虐待なさるではないかと思われるほどではないか。嵐の中でも、舟板の上でも倒れたらすぐ眠ってしまうほどに働き疲れた肉体に少しの休息も与えず『すぐに』これである。これがパウロの言った『愛の労苦』(1テサロニケ1・3)と言うのであろう。

 父なる御神も何というご苦労であろう。私ども罪の子らを救うには、かくまでなさって下さらねばならないのか。鎖でつなごうとしても、つなげなかった狂人をつなぐものはかかる愛の鎖のほかはなかったのである。神の子の十字架愛のほかに悪魔の鎖をちぎり得るものはないのである。

 恐るべきは悪魔である。今の人は悪魔を無視するが、彼の手より人の霊魂も肉体も救うものはキリストのほかはないのである。

祈祷

主よ、私は悪魔の存在をすら感じ能わぬほどに彼に迷わされております。どうかつながれた私自身を見出して、畏れおののき、一生懸命にあなたの愛の労苦に依り頼む心を起こさしてください。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著73頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。 なおクレッツマンはその『聖書の黙想』の77〜78頁でマルコ5・1〜20について「追い払われた悪霊のレギオン」と題して次のように述べている。

 荒れ狂う水と、吠えたける嵐をしずめられ、湖の向こう岸に上がられた主は、自然の破壊的な力よりも、人間にとって、はるかにおそろしい危険にみちた力に出会われた。しかし、年経た悪の力が己の地盤に迎えたこの主によって、いかに追い払われていったかを、ここにたどってみようと思う。

 ガリラヤ湖の向こう岸はガダラの地と呼ばれる、異教の地として有名な所であった。ここに着いても休むいとまもなく、イエスはすぐに、人間の力や、小細工で解決するにはほど遠い一つの問題に直面された。主は、悪魔的な力としての、けがれた霊につかれた一人の男に出会われたのである。マタイによれば、実際にはその土地には二人の男がいたとある〈マタイ8・28〉。

 しかし、この男の方がもう一人よりも、ずっとひどく苦しんでいたのは明らかだった。狂人以上の悲惨な状態である。彼は動物以下に扱われていた。彼は湖を望む丘のほら穴の、死人の骨の間に住んでいた。この男と、彼の仲間は、鋭い石で自分たちの体を傷つける時、気味の悪い叫び声を上げるので、近所の人々は、夜も昼もゆっくり休むことができなかった。勇敢なある男たちは、彼らが害をなさないように綱や鎖で何度もつなぎとめようとしたが、彼らの粗暴さを誰もしずめることはできなかった。彼らはすべての足かせを振りちぎってしまうのである。)   

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