2022年3月2日水曜日

そこひもしらぬいのちのみことば

また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。(マルコ4・24)

 イエスは今枡の下に灯火を置くなと言ったが、すぐ同じ『枡』をたとえとして神のみことばを聴く心得を説き給うた。マタイ伝ルカ伝にも同じことばがあるけれども、前後の関係がちがい、意味がちがっている。イエスは同じたとえをもって異なった真理をいろいろと説かれたのであろう。

 マタイ伝ルカ伝では人を量れば、同じ量で自分も量られるという意味であるが、ここでは人に対するのでなく、神および神のことばに対する態度を教えたのである。神のみことばは実に『種』である。まことに含蓄が大きい。意味が深い。だから聞いたところによく注意せねばいかぬ。

 大きな深い量で量れば底知れぬ深さがある。大きな量で量る人には『さらにその上に増し加えられます』。すなわち一層深く一層大きな神の奥義が示される。神のみことばはへりくだって祈り、深く読む人の前に開かれる。

祈祷

神よ、私をしてみことばの同情なき読者(よみて)たらしめ給うなかれ。願わくは、あなたの霊は私とともにあってみことばの中より昔のように私に奥義を説き聞かせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著61頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。今日の箇所は何度読んでもわかったようで私には今ひとつ理解できない。それで聖文舎刊行の間垣洋助さんのマルコの福音書の註解を調べたら同書77頁に次のような文章が載っていた。参考までに、載せさせていただく。

 24節以下の言葉も神の国に関して言われたことであるから、「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ」を、隣人を遇する態度いかんによって、神の態度がきまるという道徳的理解は、ここにない。

 したがって「量る」という言葉自体が意味を持つのでなく、「その量りで」というところに中心点がある。すなわち、人間の態度いかんによってということが問題なのであり、人間の神に対する態度、言いかえると信仰の態度に応じて、神の国が与えられるのである。

 神のみこころは、人を救い、神の国に入れることにある。しかし、神は人間を機械的に無差別に取り扱うのでなく、人間が神に応答し、御国を来たらせてくださいと祈り求める時に、その人に神の国が与えられるのである。)

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